少女がやっとのことで丘を昇りきろうとしたときに見たのは、空に向かって真っ白な鳥を放つ男の姿だった。
やはり、いた。
その変わらない姿に安堵し、同時に泣き出したい自分がいることに少女は気づいていたが何も言わなかった。男はもうずっと前から少女に気付いていたくせに、しばらく鳥の飛んでいった方を眺めて、それからやっと、彼女にむかって振り返った。午前中の光は明るい。あまい花の匂いに包まれたこの丘でさえ、清々しい気配を湛えている。しばらく見ないうちに、白樺の背が伸びたようだ。少女は微笑った。男も微笑んで、少女を迎える。この丘の女王である、美しくけうらな少女を。男のくすんだ金色の髪が、梢の下では緑を写して、灰色とも銀とも見えた。
「こんにちは、ロムルス。」
「こんにちは、。ずいぶん来なかったね。」
そう言うわりに、昨日あったばかりのような親しみのこもった挨拶だった。初めて会った時もやはり、男はそういう話し方をした、と少女は思いだす。やあ、と本当に驚いたように、そしてそれを知っていたように、なつかしむように、初めて会う人にするように、久しぶりの友人に会うように、昨日別れたばかりの人とまた偶然出会ったように、彼はそう言った。きっと何年先も、こうやって自分に挨拶してくれるのだろうと、少女は悟る。
「髪が伸びたね…もう七年生かい?」
ええと頷きながら、少女はその男が、あまりにも変わっていないことを認める。大人は子供と違ってそう変化しないにしても、1年半という年月が経過したようにはとても見えなかった。満月に似た、煮詰めた琥珀の色をした瞳。それが優しく、彼女の上に眼差しを注いで微笑している。この目を私は、昨日も見た。少女は泣き出すのを堪えるように、口を引き結んで、震える口端でやはりわらった。雲雀が鳴いて、空へ飛び上がる。光の彼方へ。
「ずいぶん来なくてびっくりした?」
「なに、ほんの一週間くらいだったよ。」
「私、七年生になったの。」
「知っているよ。」
不思議な金の目玉が微笑む。
知っているよ、なにもかも。知っていたよ、最初からすべて。
それらはすべて、同義だった。
「…ねえ、」
少女は以前無邪気に発した言葉を、今度は注意深く発した。
「ロムルスは、私の知っている子に、とてもよく、似ているわ。」
どうと風が吹く。
「そうだね。」
男が始めて、穏やかとは違う微笑を浮かべた。それはくるしくなるほど朗らかで、泣き出しそうな目玉がどても優しい、なんと言葉にすればよいのか、泣き出しそうにしあわせな、悲しみもすべて抱きしめるような、心からのものだった。くちなしの花。とてもよく似ている。泣きたくなるほどやさしくて、くるおしいほど、ただ大切だ、いとしい、いとおしい、君。しあわせな、あなた。そう語りかけてくるのだ。明るい瞳はどうして揺れて、ああ、彼はこんなにもまだ若い。
ほとんどわらったまま、崩れかけた少女の体を、男の腕が支えた。
そのまま抱き止めるように、そっと男が膝を折って、ゆっくりと少女の体が横たわる。あたたかい腕、強い力。小さく少女がわらう。男の肩越しに乳白色の空が見える。水色がかったその色は、母親の首飾りの石と同じ色だ。
ねえ、それちょうだい?
そう言ったまだ幼い娘にいつか母親はわらって、あなたがお嫁に行くときね、と言った。その口端が、お茶を淹れるポットを持つ手が、震えていた。そんな日が来ないと知っていて、そのことを少女に悟らせまいと、母親の手が悲しみに叫び出したいのを耐えて震えていた。自らの吐いた小さな嘘に、震えていた。それを見たときの絶望を、彼女は決して忘れられない。ひと思いにそんな日は来ないと、お前は死ぬのだと、どうして鋭い刃で刺し貫いてくれなかったのか。優しい父と、優しい母と、優しい人々。私の約束された死を知る人々。すべての人の目が、彼女を見据える一瞬前に、わずかにためらいがちに震える。
わたしのことみないで。
その時から彼女の胸に、その願いが根を下ろした。
誰にも知られず消えたかった。誰も私のことを知らないまま、知られないまま、悲しまれることもなく、花の散って季節の移り変わるように、自然に。
だれかかなしいっていって。
小さな呟きは銀の箱に鍵をかけてしまった。
男の頬に向かって、少女は手を伸ばす。触れた頬の乾いた感触に安堵する。男はその優しい眼差しを、逸らすこともゆるがせることもなく、ただ少女に注ぎ続けている。雪の降るように、光の積もるように、そのまなざしは少女に積もった。
おやすみと言ってくれる?
男の口端も腕も震えることはなく、少女がその頬に添えた手だけがかすかに震える。今朝コトリと螺子の外れるような音がしてからずっと、本当はもうその心臓は止まりかけていた。
「あなたなの?」
囁くような声音は、やはり小さく震えた。雲雀の声。その姿は見えず、空の上から響いてくる。くちなしの匂いがする。緑の草が少女の下に、やわらかく横たわっている。「そうだ、」
と男が小さな声で微笑した。「"僕"だよ、。」 悪戯の成功した時のような、少しはにかんだ笑顔。かわらないのね、と少女はこの丘に降る日射しのような頬笑みを浮かべた。
「私、死んでしまうの。」
ずっと黙っていたことを少女は口にした。驚くほどすんなりと、秘密は口をついてでた。ふうっと体が軽くなるのを、少女は感じる。
「僕は人狼だ。」
間髪いれずに男はそう返した。それに少女は目を丸くして、それからその金の目と茶色の目はじいっと互いを見つめあった後で、二人は声を立てて笑いだした。無邪気な笑い声が、丘に広がる。つられて花も、わらったようだ。
「私、ずうっとあなたに言いたかった。」
私もだよ、と言ってから、男はまた少しからかうように、「もちろん僕も。」と付けくわえた。
「きみはしぬね、」
明日は晴れだね、と言うように続けた男に、やはり少女はわらった。コロンと涙が頬に落ちて、それを男が乾いた指先で拭うときれいに消えてしまった。噫この男にかかる透き通った青い影は、自分だったのだ。やはり男は優しく、光の中で美しかった。私の魔法使い。少女の口が音もなく囁く。男に寄り添う悲しみの影。しかしそれは、影でしかないのだということに初めて少女は気がついた。だってこんなにも、自らを見つめる男の眼差しは揺るぎない。
「…あなた今いくつなの?」
「二十九。」
「十二年も経つの?」
「ああ。色々あったけどね。…あっと言う間だったよ。」
男が微笑む。どうして最初、一目見たときに気付かなかったろう。こんなにもそっくりだ―――そう考えて少女は苦笑する。初めて彼女が男に在ったのは五年生に上がりたてのころだった。まだ少年は少年らしい形を残したままで、今のように男に近づいてはいなかった。兄と言われれば納得したかもしれないが、本人だとは気がつくまい。そんなに変わるまで、彼は覚えていてくれたのだ。少女はもはや、その後ろめたいような喜びにも微笑して見せた。十二年と言ったら、まだ十七年しか生きていない少女には、一生に近いような長い時間に思えた。
「―――またあえてほんとうにうれしい。」
男がわらった。時すらも止めるような、うつくしい、こころの底からの微笑だった。乾いた手のひらが、少女の頬を包んだ。その眼差しに見下ろされて、少女は初めて胸がきゅうと縮むような思いがした。
「私もあえて、うれしい。」
それもまた真実の言葉だった。うつくしい微笑だった。少女が見るはずのなかった、成長した少年の姿。男はなおも微笑し、なにか大切な壊れ物を扱うように、少女の頬をそっと撫ぜた。風がふたりを抜けて通る。
「時間はね、全てが点と線で繋がっていて、それでいてバラバラと散らかっているんだよ。だからそうして君は、また僕に訪れる。」
「また?」
「そうだよ。君は僕にめぐってくる。季節のように。春の来ない冬がないように。君は僕にやってくるんだよ。」
男が"僕"と言って初めて、なにか全ての歯車がかみ合ったようだ。カチリコチリと時計の音。ああ、違う。これは心臓。彼女の鼓動だ。水車は止まった。小鳥のような小さな胸は、ただ時を刻む。君に再び出会う、時を刻む時計。
「…また会えるの?」
「違うよ、また会ったんだ。私と君の過去、君と僕の未来に。」
純粋にうれしかった。何度も頷く少女の頭をそっと撫ぜて、彼がささやく。
「もうすぐいいことがある。」
「あなた預言者なの?」
その問いかけに男は少年のように笑って「いいや、」と答えた。
「いいや。迎えを飛ばしたからね。」
なにか言おうとした少女の言葉をさえぎって、男が「きた。」と微笑んだ。彼の目の先にはいちめんのくちなし。丘へと続く道がある。いつもが昇る道。そこを昇ってやってきた、ひとりの少年が見える。
「なにがきたの?」
それが誰だかすぐわかったくせに、少女はそう尋ねた。少年の形をした、あれはなんだろう。くちなしがなにか歌っている。よく聴こえない。男の声だけ、頭の中に直接響くように少女に届いた。
「僕にもわからない。ただ誰よりもよく知っているよ。」
「…なぜすべて知っているの?」
「すべて?いいや、それは違う。」
男が笑った。
「僕が知っているのは、今までにあったことだけだ。これからのことは何も知らない。それが僕は嬉しいと思う。もしかしたら、これから―――僕が知っていたこれからはここで終わりなんだからね―――だけれどここから始まるんだろう僕の知らない、これから、でまた君に会うかもしれない。」
僕はそれを幸いだと思う。男が少女の額に小さくそっと口をつけた。いのりのような言葉だった。
「きっとまた会う。そんな気がしているんだ。すくなくとも僕は、二回君に恋をしたよ。」
その目玉が、憧憬すら映して優しくたわむので、もうなにも言えなかった。きみがこいしい、と笑って、男が少し目を伏せる。
「来たね、リーマス。」
男が笑って、起きあがるのを助けた後で少女を放した。
息を切らせた少年が、脅えるような、まっすぐなひとみで、くちなしの丘に立っていた。
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