15

 この道を知っている。
 坂を昇る途中で、ふいに彼はそんな錯覚に襲われた。この道をいつか来たことがある、そんな気がする。
 そんなはずはない、そんなはずはないのにと思い直して、しかし、ああ、やはりそうだ、通ったことがある。くちなしの白い花が咲いている。ほろほろとほどけるように白い花、光に揺れて、咲いている。こうやって光のあふれるくちなしの花が咲く坂道を、昇ったことがあるような気がする。
 初めて通る道、初めて昇る坂だ。がいなくなった。妙に明るく透き通った朝で、胸騒ぎがした。授業をほっぽり出して探し出した彼に、見なれぬ白い鳩が手紙を運んできた。パタパタという軽い羽音と、あまい匂いで彼はその鳥に気がついた。なんの匂いかはすぐにわかった。くちなしの花。その赤い小さな足に括りつけられた羊皮紙の文字は、どこかで見たことがあるような気がした。

『ムーニー
 ころがるように、南へ。破れた白い垣根を潜れ。
                     ―――魔法使い。』

 心臓が、止まるような気がした。
 しかし彼はこうして学校の真南を目指してまっすぐに、それこそ言われずとも転がるように駆けた。見なれない白い垣根の破れた部分を見つけて潜ると、そこはもう見知らぬ土地だった。まっすぐに続く道は長く、その周りにくちなしの白い花が、一面だ。とおくに緑青を持ったような、小さな丘が見える。そこで光が揺れていた。おいで、と呼んで揺れていた。少年は歩き出した。なぜか決して、走らなかった。どこかで雲雀が鳴いていた。
 やはり僕は、ここへ来たことがある。以前にもこうして、泣き出しそうな、焦燥感に叫び出しそうな不安な胸を抑えて―――いや、違う、親しい懐かしい誰かと待ち合わせをして、ほんとうにその人が来るだろうかと期待と不安を綯い交ぜにしたような、しかしきっと来るとういう確信をどこかで含んだような穏やかな気持ちで―――?
 よく、わからない。
 はやく、いそがなきゃと心が急かすのに足はどうしても歩くスピードしか出せなかった。花が道のわきで、そんなに急がなくてもいいじゃないというように風に揺れる。どうしてこんなに世界は美しく穏やかなのだろう。彼の心は理由の知れない不安で棘とげとささくれだっていた。
 小さな丘が、だんだんと近づいてくる。一本の木が見える。明るい光に包まれるように、丘は立っている。やがてその木の下に、彼は人影を認める。ひとり―――ふたり。少女は横たわって、見知らぬ男に抱えられていその手を男の頬に伸ばしている。ぞっとするような、足元の地面が落ち込んでいくような気がして、彼はついに走りだした。

「来たね、リーマス。」

 男が笑って、起きあがるのを助けた後で少女を放した。
 一目見て、いや、丘にいる人影を認めた時から、彼にはそれが誰だかわかった。背が高く、黄金を煮詰めた琥珀色の目をして、草臥れた格好をした、しかしまだ若い男。魔法使いと魔女の学校に通いながら、彼女が初めて、"魔法使い"だと述べた男。彼に手紙をよこした男。くすんだ金の髪に、穏やかな眼差し。それを見たとき、彼は一瞬ハッとした―――誰かに、似ている?
 息を切らせたまま、脅えるような、まっすぐなひとみで、男とを交互に見る。
 うつくしい微笑を浮かべたまま、少年の方によろよろと歩み寄ろうとしたが、立っていられないというように膝を折る。ずいぶんスロウに、それは見えた。とっさに手を伸ばして受け止めると、少年の腕に少女の重さはあまりにも頼りなく感じられた。
「…?」
 どうしてこんなに軽いのだろう。
 輪郭のわからない不安に、少年の声が震えた。それに少女が、かすかにわらった気配がする。男がおもむろに立ち上がると、彼の前に立った。やはりその姿をどこかで―――それどころか見なれているような気すら、少年にはした。しかしどこで見たのか、思い出せない。
「やあ、」
 懐かしい友人に対するような、朗らかで穏やかな挨拶だった。リーマスがなにか言う暇も与えず、男がにっこりと、うつくしい微笑する。
「君もいつか、じきにすぐわかる。」
 おやすみとそう歌うような、うっとりとするような優しい響きで男がそれだけ言うと、少年に抱かれたままの少女の髪を撫ぜた。ええ、また。と返した少女に、一瞬男が困ったような泣き出す前のような顔をしたのは彼の見た錯覚だったろうか?
「ああ、また。」
 そんな響きの言葉を聞いたことがなかった。
 と男のやりとりに戸惑うばかりの彼を置いて、男は名残惜しげに、けれども満足したかのようにそっと背中を向けて歩いてゆこうとしている。引き止めようと開きかけた少年の口を、少女の手のひらがその腕を掴むことで止めた。ハッと彼が腕の中を見下ろすと、少女は彼の胸に埋めていた顔を上げて、まっすぐ微笑んでいた。
 きれい。
 時すら止めるような微笑だと、彼は思った。

「ねえ、リーマス。やくそくをしてほしいの。」

 ずいぶん切れ切れで、小さく、しかし妙にはっきりした言葉だった。
 明るい光が、梢を通してチラチラと瞬く。どこかで雲雀がないて、くちなしの花が揺れる。噫やはり僕はここへ来たことがある。少女の瞳に吸い込まれるような気がしながら、彼は黙って聞いている。

「私のこと、覚えていてね。忘れないで。そしてまた、ここへ会いに来てほしいの。」

 どういうことだいと尋ねるには、少女の顔色は光に透けて、それにしても真っ白過ぎた。痛いほどその細い指先が、腕に食い込んでいる。そうしなければ話してもいられないのだと、彼はようやっと気がついた。
、いったい、「ねえ、おねがいよ。やくそく、」
 遮って続ける少女の声があまりに必死で、そしてなんだか、透き通ってこのまま消えてしまいそうで―――少年はなんとか言葉を続けることで彼女を繋ぎとめようとした。梢が揺れている。その言葉を理解したくない。
 さようならのじかんだよ、さようなら、さら、さら、さようなら、さら、さや…。
「あいにきて。1989年よ。」
 なにを言っているのか、彼にはまったくわからなかった。ただ少女の瞳ばかりが必死の様子で、生命力を放っている。しかしだんだんと、その指先の力が弱まっていく。その膝が体重を支えきれずにだんだん地面に近づいてゆく。一緒になってしゃがみこみながら、リーマスは泣き叫びたいのを押し込めていた。
 噫、これが、彼女の秘密なのだ。
 彼はもう気がついていた。少女の心臓は、止まろうとしている。指先が冷たくなってゆく、力が抜けてゆく、瞳だけが輝いて、くちびるがかわいてゆ―――声がちいさく、聴こえなくなる。急がなくてはとくちなしが囁いた。その子の耳が、なにも聴かなくなる前に。リーマス。さあ、約束をして。

「あいにいく。」

 その約束の意味も知らず、少年は必死にただそう言った。少年の瞳は琥珀の色をしていた。初めては、少しわらって、それから泣いた。あいにきたよと、どこか遠くで男が囁いたのを彼女は聴いた。
「きっとかならず会いに行くから、」
 その言葉に、少女がようやく心の底から安堵した笑みを見せる。
 みらいのやくそくができるなんて思ってもみなかった。とぎれることのない、時の螺旋。彼女がそこから、はじき出されることはない。巡りめぐった時は、限りなく近づき、そうしてふたたび、少女は会う。この約束が、男を少女に連れてきた。どうしてなみだがとまらない。

「…まってる。」

 まっていた。あなたはきてくれる。この丘で確かに待っていてくれる。
 待っていてくれた。
 わたし、しっているのよ。花のような微笑だった。くちなしの花、真っ白な花。あまいかおり。それきり少女はなんにも言わず、震える口端でそれでも少年は微笑って、それから口をぽかりと空に向かって開いた。そこから飛び出した悲鳴は、空が吸い込んでしまった。



(110504)