epilogue bridge


 くちなしの丘を昇る。
 あまいにおいが空気に紛れて、ひそやかな秘密に似た角砂糖の味。長い坂を昇りながら、白い花々を見る。花の向こうの空は霞みがかって、青にはミルクが混入されたに違いないと思う。
 いつか嗅いだくちなしのかおり。その直中で、記憶に連なる古い校舎の柱の影に、はにかんだ微笑と一緒に見え隠れする少女がある。雲雀の歌の合間に、 どこからか、リーマス、とわらうような囁きが、かつて少年であった男を呼ぶ。
 やがて彼は遠い日少女が見た通りの微笑をする。木漏れ日に似た光の中を歩むような日々の上で。秘密を散りばめた時の中で。
 くちなしの丘を昇る。
 あまいにおいが風に乗って、鼻の先をくすぐる。少女は緩やかな長い坂を昇りながら、途切れそうになる呼吸を整えようと足を止め、頭上の花々を見る。花の向こうの空はあわい乳色じみた青。母親の首飾りの石と同じ色だ。男の柔らかな微笑も、同じ色、している。
 くちなしのかおり。白い花。
 あそこまで、たどりつかなくてはという根拠のない義務感に背中を押されて、少女はゆっくりゆっくりと昇ってくる。光の中を、壊れかけた心臓を抱えて。初めて昇る丘に、不思議な懐かしさを覚えながら、少女はなおも歩く。鳥が飛んで風がそよいで、草原に落ちる光のまだら模様。ミレーか、そうでないならセザンヌだ。印象派の光。海の向こうの水平線がチラチラと輝くような、色と光の群舞。
 男はその色彩の中に、帆船のように静かに、停泊している。遠く置いてきたはずの思い出は、常に彼の影のように離れてくれない。本当は離れてくれないのではなくて、離さないのだ。忘れようとしても、忘れられない。忘れたくないもの、きっと誰にでもあるだろう。目蓋を閉じて、懐かしい記憶の底に沈む時、かならず泣き出したいような衝動を伴って、浮き上がってくるうたかたの沫。その思い出こそが光で、自分こそがそれに寄り添う影だ。光はすべて、気がつけばいつも背中に、いつも隣にある。
 少女の耳元で、その光と影が、囁く。
 うつくしいね、さびしいね、やさしいね、かなしいよ、あかるいね、くらいね、なんだかしずか。交互に囁かれる言葉はどれも真実で、内緒話はいつも少女の胸のうち。きっと誰にも、聞かれることはないだろうという、かわいらしい予想があった。
 けれど時折、誰かに聞いてほしくなる。
 私が生まれる前のこと、両親に聞いてみたいと思い、私が死んだ後のこと、誰かに忘れないと小指で契って欲しいと思う。
 くちなしの丘は、少女の囁きを吸い込んだ。私のこと忘れない?忘れないで、覚えていて。風も空も木も鳥も、丘は頷いた。忘れないわ。くちなしの花は白く燃えて歌う。わすれないわ。
 花の咲く道。丘へと続くまっすぐな長い一本の道を、少女が昇ってくる。
 それが誰のためか、少女は知りもしない。ただ彼女がよくしっているのは、この明るい日差しの中に、隠れているもののこと。目蓋を閉じたときに、ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせるその存在。見えないけれど、確かにある。すぐ傍らに、それはある。明るい日差しのその中に、影が潜んでいるように。地底に出る月が、優しい腕を伸ばしてすべての人間を待っていること。
 誰にも見られたくなかった、少女を知る人すべてに。誰も見ないでほしかった。弱っていく自分、噫、そのとき君はどんな目で私を見る?母親の、父親のように、その手は震えるかしら。しかし少女は、その時に近づくにつれてますます健やかに、うつくしくなる。透明な花の咲くように。きっとくちなしを風で構成すると、少女の形になるのだろう。
 少女の髪からはいつも、白い花のかおりがした。
 少年からはいつも、どこかさびしい秘密のにおいがした。
 二人はとても、よく似ている。
 少年の美しい顔に、影を落とす秘密は、少女の頬に、影を落とすその死の秘密に、なんだか少し似ているようだった。秘密の気配は、二人を近づけ、共犯者にする。二人は沈黙のまま、寄り添っている。尋ねられれば答えねばならぬ、答えれば口は嘘をつく。真実を語ることは、あまりに己を傷つける。そしてあなたに、嘘はつきたくないからと、どこか遠くで"私"が囁く。いつか必ず告げるから、それまでどうぞ、知らないふりをしてほしい。
 真っ白な花が咲いている。雲雀の巣はどの辺りにあるのだろう。くちなしと言うのは星の形に似ている。それらはみな饒舌で、笑いさざめきながら散ってゆく。甘い香りとそのこうふくの余韻だけ残して、白い花びらは地にまみれる。
 くちなしのようになりたかった。
 春が来ればまた咲くことを誰も疑いやしない、巡り廻る存在に。
 しかし本当は、時間と空間は、内側に向かって優しく閉じられている。くちなしの丘は、いつも頭の中に、その頭上にある。あまいかおり。さえずる小鳥たちの声と、地面に落ちる光と影と。白い花、緑の絨毯、白樺の木。その下で待つ人。それらは常に、少女を待つ。白群の空に雲が流れて、ゆったりとした風の吹く丘。坂道を昇った先。緑の海に浮かぶ帆船のような。そこで待つ人。黄昏の色をした男。それらもまた、春のように、少女に巡って来る。何度も何度も繰り返し、少しずつ表情を変えて、訪れる。
「…やあ、」
 丘が光にくるまれて眠っている。
 男が振り返り、少女に微笑みかける。その微笑の美しさの意味を、まだ少女は知らない。まだその時ではないからと梢で風がざわめく。丘にはかつてここで微笑する少女の声が、まだかすかにあちこちに残っている。それに耳を澄ませながら、男は微笑む。音のない囁きを、いつも男は発していて、それがいつか、もうすぐ届いたとを、知っていながら、それでも願わずにいられない。くちなしの丘はずいぶん待たされた。少女に二度会った男はいずれ丘を去り、そうして再び、少女に二度目に会うためにやってくる。繰り返し繰り返す、時の螺旋。
 いつか少年であった頃、彼は嗚咽も立てず静かに涙を流しながら、ふいに忘れた花の名前を思い出す。
 くちなし。
 白い花が目蓋の裏に浮かんぶ。一億年もそれを繰り返していることを知りもしないで。1989年、自分がその花に囲まれていることを彼はまだ知らずにいる。その時も変わらず丘は明るく、白樺の梢は金色の日光を縢る。白い鳥、彼女の胸に住む鳥が舞う、乳白色の空。くちなしの花々が、わらいさざめく漣に似た音の波の底に沈んで、彼は待つ。その"時"を待つ。やがて来る君に、花の中なにを話そうと考えながら。
 彼はいつか、過去の上に透明な手紙と花を投げる。
 くちなしの丘の上で、少女が再び彼に訪れ、少年が再び少女と出会い、少女が初めて男に出会うその日。
 時はめぐっている。時はばらばらに、空に撒かれた星のように、途切れて散らばっている。その点を階段状の線が繋いでいる。それは迷路に似ている。それはまっすぐな一本道に似ている。それは無限の、螺旋に似ている―――。
 その丘は北極星のように、不動のまま、静かにそこに存在し続けている。くちなしの丘で待つ、すべての人のために。
 いつかの太陽の光が真っ白に明るい朝。苦しみも悲しみも、すべて洗い流されたような真っ白な光に満ちた朝を待っている。水車の回るような音をたてて、コトリ、コトリと、少女の時計が動き始める。少女にだけ囁きかける、一種の魔法が発動するその時を待っている。
「真夜中に目が覚めて、まるでなんだかいつまでもいつまでも起きていられるような気がすることはない?真っ暗に閉ざされた優しい闇の中で、真っ白に明るいやはり閉ざされた光のなかで、私はふいに、そう感じることがある。このままいつまでも、眠っていられるような気がする。」
 モノローグは続く。
「そんな時、、私はまるでこのままいつまででも生きていられるような、そんな気がする。」
 それは誰の声だろう。赤いセロのような、錆びたヴィオラのような、小鳥のような、天の上から、地の底から、山の彼方、わだつみの淵から、幾重にも重なって広がるその声。
 朝の光に透けるような、美しいほほえみそ浮かべて、少女は風の中にそれを聴く。いつか誰かの書く手紙を、小さな両手で受け取って読む。
 わたしのことみないで。
 その願いを折りたたんで、いつか少女は空に投げる。それを受け取った男が、少女を見るためだけに、長い螺旋階段を下って来る。
 だれかかなしいっていって。
 小さな呟きは銀の箱から取り出すと、白い鳥になった。お気に入りのワンピースの、胸元の刺繍にその優しげな青い眼差しがよく似ていた。そうっと放たれた鳥は、少年に手紙を届けた。むかえにきて、その、時を、きみをまつその時を、そのあしで、あるいて、むかえにきて。くちなしの咲く道をのぼって、いつか訪れた丘に。
 男の頬に向かって、少女は手を伸ばす。触れた頬の乾いた感触に安堵する。男はその優しい眼差しを、逸らすこともゆるがせることもなく、ただ少女に注ぎ続けている。雪の降るように、光の積もるように、そのまなざしは少女に積もる。最初からそれは、いつでも少女に注がれていたもの。
「おやすみ。」
 おやすみおやすみよと何度も繰り返す。また君の目が覚めたら、おはようと言うから。リーマスどうぞ何度でも、繰り返し言って欲しい。何度でもこの丘を昇って、何度でも失って、何度でもそれを得てこの丘を去っておくれ。少女が待っている。そのひとこと、たったひとつの約束を待っている。誰もいない丘に、セロの響きがひとつ。
 ―――君は僕にめぐってくる。季節のように。春の来ない冬がないように。君は僕にやってくる。」
 くちなしの丘。小鳥に似た、ちいさな声がどこからともなく響く。
 ―――私のこと、覚えていてね。忘れないで。そしてまた、ここへ会いに来てほしいの。」
 誰もいない丘。優しい光と風に満ちた丘。木影で緑が、優しく手招きをする。金の色をした少年が、そこに立っている。「会いにいくよ、」 と歌うように述べて、その姿が消える。それは時の残像だ。ふいに過ぎる予感に似た未来の影だ。それは過去の投げかける光だ。
 すべてはおなじことなんだよ。すべてばらばらに点在する、いま。螺旋の階段で繋がる、すべての星。
 めぐる季節になること。
 それが少女の望む全てだった。

 くちなしの丘を昇る。
 あまいにおいが空気に紛れて、ちいさな秘めごとに似たザラリとした優しい舌触り。白い花々の咲く坂道を昇りながら頭上に広がる空を見上げる。霞みがかった白群は、ミルク瓶を誰かが風にひっくり返したために違いないと思う。
 もう何度も嗅いだような気がするくちなしのかおり。雲の切れ間から落ちる光の柱が、記憶の中に連なる古い校舎の柱の影とだぶる。その向こうに、はにかんだ微笑と一緒に見え隠れする少女。雲雀が空で鳴いている。どこからか、リーマス、とわらうような囁きが、かつて少年であった男を呼んだ。
 やがて男は少女を振り返る。さびしい薄紫色をした、優しい気持ちで、彼は微笑する。御伽噺とも魔法ともつかない、うつくしい夢の紡いだその扉をくぐって、彼はここへとやってくる。
 くちなしの丘を昇る。
 花のにおいが風に乗って、耳の横を通り過ぎる。少女は緩やかな長い坂を昇りながら、その風の涼しさにほうと目を細め、止まってしまっていた足を動かして再び歩き出す。頭上の花々の向こうの空を見る。空はあわい乳色じみた青。母親の首飾りの石と同じ色。
 くちなしのかおり。白い花。
 あそこまで、たどりつかなくてはいけない気がする。少女は壊れかけた心臓をいたわりながら、少しずつ少しずつ昇ってくる。初めて昇る丘の美しさに、いちいち感嘆しながら、かつてそんな感覚を覚えたような錯覚をする。鳥が鳴いている。風が花の上を吹き渡る。海にきたような気配は、くちなしが風に揺れる時に立てる漣に似た音のせいだろうか。
 いつかこの道を昇った気がする。
 そんなわけないのに。

 もう何度も何度ものぼった道を、少女が初めてのぼる。もう何度も何度も去った丘で、やはり男は待つ。何度目かの坂道を、少年がのぼってくる。
 時間は螺旋状の階段に似ている。時は遠に散らばる星々のように、ばらばらに散らかっている。いつか訪れる時の扉をたたくのは、難しいことではない。いつか訪れた時の上に、降り立つことも。
 約束がある。
 またねという、ごくかんたんな約束がある。
 そのために少女は、男は、少年は、丘をのぼってやってくる。夢より遠い坂道を、花の隙間を通る道を、自らの影をひきつれて光を抱きながら。
 空には虹が出ているよ。
 くちなしの花が咲いている。いつでもずっと変わらずに、咲き続けている。しかしその花は、どれも同じではない。ひとつおちてはまたそこに咲き、それが落ちてはまた咲く花。しかしそれは決して、同一ではない。それでもよく似た花が、繰り返し繰り返し、ひとつの樹から芽吹いては咲く。さようならなんて知りもしないで。
 咲き続ける。
 時は樹に似ている。木蔭で休みながら、落ちてくる花のひとつを、手に取ることができる。ふと見上げると、花のない枝に、つぼみが顔を覗かせていたりする。かと思えば、いつの間にか、その葉が風に流れていたりもする。
 白樺の木が、空に向かって伸びる丘。
 眠る丘は待っている。くちなしに包まれて、光に抱かれながら。
 男は待っている。少女を待っている。少女は待っている、少年を待っている。少年は待っている、その時を待っている。この螺旋の鍵を、手に入れるその時を。
 約束するのは簡単だ、秘密を隠すなんかよりずっと。

 そうしてその時、僕は、花の向こうの君と話をする。
 われわれはすべての時間を内包している―――小難しい言葉だ、しかし理解すれば、それは当たり前のこと。時は交錯し、螺旋状のループを描く。点と点を指先で描いた線で繋いで。星座をつくるのと似ているね。
 ねえ君。
 そうして君は、再び僕に出会う。
 丘は待っている。その時を内包して、いつまでもそこにある。
 我々は繰り返す。我々は待っている。
 くちなしの丘の上で。



(110504)