ずっとずっと、聞こえてくる声がある。月に一度、呻くように唸るように泣き声を押し殺すように、低く高い、声だ。
私はずっと気になっていた。父も母も教えてはくれない。高いコンクリート塀の向こうに、なにがいるのか。(それともあるのか?)
近寄ってはいけない気にしてはいけない知ってはいけない。
私はずっと知りたかった。
「…誰かいるの?大丈夫?」
小さく呼び掛けた声は、冷たいコンクリートに吸い込まれて消えてしまった。
声がぴたりと止む。
耳が痛くなるような沈黙。
星ひとつない今日の夜の暗闇が、じくじくと肌を刺すような気さえした。沈黙は続く。重苦しく背中にのしかかる。背中を嫌な汗が伝うのを私は感じていた。
「だれ?」
小さな、ともすれば聞き逃してしまいそうな、弱々しい吐息のような声がした。私の呼びかけに、戸惑い恐れ、怯え、そして何かを期待している。さまざまな感情が混じって、頼りなさ気にかじかんでいた。
その小さな小さな声。それだけで、静寂が破られ突然私の耳には辺りが騒がしくなったような気がする。
ずっと近くに虫の声が聞こえた。その羽音すら今の私には拾えただろう。けれど私は、そのとき塀の向こうの何者かに夢中であったのだ。
「あなたこそだぁれ?」
私はコンクリートに頬を寄せて囁いた。
この塀の向こう側から悲痛な声以外に、生きた人間の声を聞いたのは、初めてのことだった。
再びしばらくの沈黙が続く。
「…リーマス。」
小さく掠れた、ボーイソプラノ。私は何故だか返事が返ってきたことが酷くうれしくて仕方がなかった。
「わたしは!だよ。」
「…。」
リーマス、は塀の向こう側で、私の名前を覚えようとしてくれているのだろう、何度か私の名を呟いた。
一方私も、頭の中で、何度もリーマスという名前を反芻させていた。
リーマス。リーマス。
心のどこかで、酷く安堵している。塀の向こうには、ちゃんと人が住んでいたのだ。
リーマスの苦しげな呻きが耳に届く。私は塀に手を着くとそっと囁いた。
「リーマス?」
呻き声がそれに答える。
「どこか痛いの?だいじょうぶ?」
泣き出しそうに掠れた吐息が聞こえた。
「?」
聞くだけで悲しくて仕方がなくなる声だ。
「リーマス、リーマス。ねぇ。どこか痛いの?だいじょうぶ?おくすり、もってこようか?知ってるかもしれないけど、家、びょういんなんだよ。おくすりあるよ?おとうさん、よんでこようか?」
私のたくさんのおしゃべりに、リーマスは少し笑ったようだった。分厚いコンクリート越しにも、空気か和らいだのがわかる。
「…大丈夫だよ。」
大きな息を吐いて、リーマスが言った。大丈夫なわけなんてないのに。ひどく悲しくなった。私の背は足りなくて、この塀すら、越えられない。
リーマス、君になにができただろう。ちっぽけな私に。
「…リーマス。…わたし、今日はずうっとここにいるからね。だからだいじょうぶ。だいじょうぶだよ。」
祖母がちゃんがいてくれるのが一番のお薬よ、と微笑んでくれるのを私は知っていた。病気のときはね、心細くなるの、だから誰かにいてほしくなるのよ、って母が病気の重い患者には夜中付き添うのを知っていた。
幸い今夜は明るい満月だ。夏の空気は湿っているが暖かで、庭の草の上にはうっすら露が降りている。風もない、良い夜だ。一晩外に出ていたって、大丈夫に違いない。朝になったら、こっそり同じ要領で、木によじ登り屋根に降りて、窓から部屋へ、そうしてベットで眠る振りをすればいい。
コンクリートにほっぺたと耳とを押し付けるようにして、小さな私はずっとずっとリーマスに話かけ続けた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
おまじないのように。
時折リーマスはふっと痛みから意識が浮上すると、辛いだろうに私に優しい声をかけてくれた。
―寝なくていいの?だいじょうぶ!
―寒くない?ぜんぜん!
―眠くない?ううん!
―はいくつ?ななつだよ、リーマスは?…やっつ。
―退屈じゃない?ううん、空、みてるから。
「…こわくないの?」
口に出すことを、ためらうような、まるで言えば私が消えてなくなるんじゃないかというような、ひどく躊躇いがちな囁きだった。
「ぜんぜんこわくないよ。…リーマス、お水いる?」
「ううん。…ううん、水は、いらないや。…ありがとう、。」
どうしてかな、痛みを堪えて額に汗をにじませながら、泣き出しそうな目をしてそれでも微笑む少年が想像できた。なぜだかその優しくて優しくて仕方のない声を聞いたとき、私は泣き出して謝りたいような気持ちになった、
塀の中にはリーマスが、たったひとりで叫んでいる。血を吐くような悲しい声で。
私はそれを、知っていながら、それが誰なのかなぜなのか知ろうともしなかったのだ。リーマス、リーマス。君はいったいどれだけの夜ひとりぼっちで私の知ることのない苦しみに耐えてきたのだ?理由は知らない。けれども私は知ってしまった。
塀の向こうの誰かさんの名前。リーマス。何が優しい君を苦しませるのだ?
月明かりにぼんやりと浮かび上がる高い灰色の塀を見上げて私はにらんだ。
(ああ早く大人になりたい。)
大人になってもっと背が伸びたなら。こんな壁かるがるとよじ登れるだろう、こんな壁壊してしまえるだろう。
(大人になりたい。)
去ろうとするローブを思わずつかんだ。控えめな力だったけれど、リーマスは躊躇うように立ち止まる。その背中に、やはり私もためらうようにそっと触れた。
なんと言えばいいのかわからない。
あの頃の私ならなんと言っただろう。今の私には想像もつかない。
あの頃の私は、少なくともリーマスを安心させ微笑ませることができた。今は、…自信がない。
「泣かないでリーマス。」
私よりずっと広い背中に額を押し付ける。
ぎくりと大きく君の肩が震える。その顔はどうしてる?途方に暮れて、強張っているに違いない。
私はリーマスの背中にいるのだから、決して顔は見えるはずないけれど、それでも肩より下に長く伸びた髪がありがたかった。私の怯えたような情けない顔を、隠してくれる。
リーマスの背中。こわごわとしていて、薄く、骨ばっている。肩甲骨の間の背骨が通ったあたりに、私は額を押し付けた。リーマスは静止している。もう君はあの塀の向こうでは決して泣かない。私の前でも、もう泣かないのだろうか。
なら君はどこで泣くんだろう。
「…泣かないで。」
思った以上に、泣き出しそうな声がでた。
泣きだしたいのは君のほう。
幼い君、幼い私よ。まだ私は。
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