懐かしい校舎を歩いていた。
時が止まったように、変わらない景色がある。そこに繋がる記憶を、わざわざひとつひとつ、引っ張り出しては眺め、少し微笑みながらリーマスは歩いていた。
途中擦れ違った僕妖精に「おや、」と目を丸くされる。
「リーマス・ルーピンでございますか?おやまあなんとお懐かしい!教授になられたんですねえ!」
あの泣き虫の男の子が!と少しくすくす笑われて、しかしその後、「わたくしは誇らしゅうございますよ!」とくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして微笑まれた。恥ずかしいような、くすぐったいような。よく覚えていたねと照れ隠しに微笑むと、わたしはみんな覚えていますよと、妖精は微笑んだ。リーマス・J・ルーピンはチョコがお好き、日に何度も召し上がる。ポッターやブラックとはお友達で、・と仲がよい。魔法薬学がてんでダメで、ココアを淹れるのがお上手。監督生も務めて立派でございましたねえ、とまったく本当によく覚えているものだ。
誰にも見つからないように、こっそり泣いていたつもりだったのだけど、それは間違いだったらしい。そうか、泣いた次の日に、チョコを差し入れしてくれていたのは妖精たちだったのかと彼は何十年越しかで納得する。
「お懐かしいですねえ、ほんとうに。」
後でチョコを持って行きますと行って、妖精は廊下の角で彼に手を振った。
彼もそれに少し手を振り替えして、また歩き出す。
今日の授業は全て終わった。採点するべきレポートもない。ゆっくりゆっくりと、思い出を端から解くように、リーマスは歩く。悪戯好きの誰かさんが、ぶちまけて以来とれていないらしい染みや、こっそり赤毛の先輩が刻んだ柱の裏のイニシャルやら、見つける。案外覚えているもので、図書館のお気に入り、淡い水色の表紙の本の、置かれた場所も変わらなかった。
「ルーピン先生は学生の頃からこの本、好きでしたものねえ。」
思わず借りたリーマスに、そうマダム・ピンスが笑う。
ほんとうに、意外とみんな、覚えているものだ。
少し目を丸くして本を受け取ると、リーマスはぶらぶらと庭へ続く回廊を歩いた。手には水色の本。授業中の後者は校舎は静かで、散歩をするにはもってこいだ。さぼっている生徒が今の自分に出くわしたら、きっと困るだろうなあ、だとか、次の授業の大荷物抱えたセブルスに会ったらどんな嫌味を言われるだろう、とか、なんとなくほほえましい想像をしながら、ついには庭に出る。
どうやら中庭の方で、飛行術の授業が行われているようだ。1年生の、きゃあきゃあと言う高い声がする。アップ、と言ったら自分の頭を飛び越えて、箒を一番先に手に収めて得意満面だった友達の、頭に着地してしまったのを思い出して、少し噴出す。
騒がしい方に背を向けて、彼はぷらぷらと歩き続けた。
林の小路を抜けて、そのままハグリットの畑を迂回する。番人の小屋からは、細い煙が立ち昇っている。それを横目に、のんびり歩く。そうして小径を、なおもしばらく歩いてゆくと、湖が見下ろせる小さな丘へ出た。
緑の草は柔らかく、そよりそより、風に揺れている。風の通った後の草が、白く太陽に光るので、まるで海のような浪模様が見える。空は青く、湖はそれを映してまっさおだ。
むん、と一度背伸びをして、彼は草の上に腰を下ろした。若草色のローブはつぎはぎだらけで、風にはためく。リーマスの煤けた金色の髪も、同じように風に靡いた。気持ちのいい風が吹いている。うっとりと目を細めて、草の上についた手をそのまま、太陽を見上げる。
「ねぇ、リーマス。…覚えてる?」
びっくりした。
ものすごく自然に、が隣に座っていた。ざやざやと草が鳴る。
丘は変わらずに緑、湖も空も青い。リーマスは目をぱちくりとさせて、隣に座った少女を眺めた。スカートから杏の色した膝を草の上に投げ出して、はリーマスを見上げて目をくりくりさせていた。口端に浮かんだ微笑は、楽しくて仕方がないようだ。あの頃とは随分違う目線の高さに、彼は参ったなあと少し頬を掻く。
白昼夢だろうか。
「なにをだい?」
尋ね返す声はあの頃より随分低い。草が鳴る。風が通る。リーマス襟が風に揺れて、の髪が靡いた。
「なにって、いろいろ。いろいろよ。」
問いに答えて少女が笑った。それにリーマスは、そうだなあ、とのんびりと呟く。
「いろいろあったからね…でも、意外と覚えてるもんだなあ、って、思ったよ。」
その答えにがふふふと笑って、それから座ったまま、両手を組んで背伸びをする。そうすると、肺に新しい空気がいっぱいに満ちて、きもちがいいのだ。リーマスも真似をする。本の表紙が少しパタパタと鳴る。
「リーマス、またその本?」
「…思い出してね。このお話が好きだったんだ。」
「知ってるわ。」
が笑う。風が鳴る。
「ねえ、リーマス。変わったわねえ。」
「…そうかな。」
そうよ、と笑う彼女の、胸元で赤と金とのネクタイが揺れる。
「ねえ、リーマス。変わらないわねえ。」
「…そうだね。」
ええ、と頷いてなお笑う彼女の、真っ黒なローブ。変わってしまった、変わらないもの。たしかにここにあるわねと笑って。
花が咲いた。白い花。花びらが風に流れて、その後にいくつも、鈴のような花が続いた。草原は緑。花は黄色と白。ポロンとどこかでピアノが鳴って、草がざわめく。リーマスはひとり。
花びらが風に流れた。
湖の見える丘で彼はひとり。リーマスははっとして、ああでもそれから腕で抱きしめるように顔を覆った。いい天気。噫僕は今でも時々泣き虫なんだ。妖精がチョコを持ってくる。
「変わったねえ。」
誰にともなく呟いた。
「変わらないよ。」
誰かにそっと囁く。
気づくと隣に立っていた、がとても優しい目を細めてリーマスを見下ろした。彼は座ったままで、彼女は立ち上がったのに、随分顔が近い。腕を顔からはずして、少し少女に微笑みかける。それに彼女も微笑み返した。
思い出した?ねえ覚えている?リーマス。歌うように、ささやきながら、とてもうれしそうに。すべてはあなたの手の中、頭の上にあるのよ。
ふいにそのつめたい手が伸びて、リーマスの手を握ると、は少し笑った。リーマスの手は、あたたかいのね。握って、閉じて、開いて、グーパーグーパー。何度か飽きずに繰り返して、は笑う。リーマスはただ黙って、少女の幼い動作に、じっと黙ってされるがままにしていた。
ひんやりと冷たい手のひらの温度が、リーマスの手のひらに染み込んでくるようだった。冷たいせせらぎに手を浸したような気分。記憶の水底に目を凝らす気分。
草原が鳴る。湖でなにか、怪獣が鳴いている。細く、長く、低く。どこか汽笛にも似ている声は、紫色に錆び付いてしまって、なんだか少しばかり寂しい。
花が流れてリーマスはまたひとり。
ひとりぶんの手のひら、眺めて彼はもう一度のびをした。
いい天気。本でも読もう。懐かしい本。空色の表紙。ずいぶん何度も呼んだ本。変わらないもの、ここにもあったね。変わったもの、ここにあるよ。
いない女の子に少し彼は笑う。
「会いに行に行くよ」
きっと50年後くらいにね。
言ってから少し、笑ってしまってリーマスはのんびりと、水色の本を持ち上げた。花が隣で一輪、笑うように揺れた。
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