!」
宣言された名前に、リーマスは打たれたようにはっとなって壇上へ目をやった。食い入るように、リーマスの見つめる先で、ちいさな女の子が、頼りない足取りで、階段を昇ってゆく。細い手足。やわらかそうな耳の形。
それは本当に、リーマスの思い描いたとおり、やわらかで優しい、塀の向こうの天使の女の子だった。
「リーマス、お水いる?」
そう的外れに尋ねた女の子は、どれだけリーマスを泣き出したいようなうれしい気持ちにさせただろう。その子は天使に違いなかった。そうでなければ、化け物のリーマスに声をかけるわけなんてないのだ。
リーマスは確信する。


*


「リーマス?」

すれ違う途中に目が合った。のぱっちりとした目がリーマスを見ている。
そんな馬鹿な。
心臓が引きつるくらい早足で鳴った。
だって、は。
リーマスの顔を知らないはずなのだ。なのに、なぜ、僕だとわかったんだろう?塀の向こうの男の子。君は僕の顔を知らないはずだのに。
「リーマスでしょう?」
が小さく駆け寄ってくる。
リーマスはそれこそ打たれたようになって、その場に突っ立っているしかなかった。
「…違うの?」
が意外、というようにリーマスを見る。
まるでリーマスがリーマスであることに疑いなんて微塵も持たなかったようだ。どうしてそんなに確信が持てるんだろう?確かにもちろんリーマスだって名前があったのもあるけど、すぐにだってわかった。塀の向こう女の子は星明りを集めて透明な羽を生やしている。どんな姿かしらってずっと考えてた。でも形はどれだけ考えても像を結ばなくて、ばら色の頬と天使の羽と、やわらかい目玉とそれしか浮かばなかった。
しかし今目の前に、確かな形を結んでがそこにいる。
ここにいる。
「…ちがわ、ない。」
どうしてわかったのか、言葉になりきらなくて、かろうじてそれだけ言ったら、は顔中を花のようにほころばせて笑った。それにリーマスはますます身動きが取れなくなってしまう。
「よかった。やっぱりリーマスだ。」
が笑う。うれしそうにリーマスの手を取った。それだけで、どうしてだろう震えるほどうれしかった。生きている、そう思った。

つめたい手でリーマスの手を握って、は少し笑う。リーマスの手は、 あたたかいねえ。は笑ったままリーマスの手をぎゅっぎゅ、と強く何度も握るので、リーマスは、じっと黙ってされるがままにしていた。ひんやりと冷たいの手のひらの温度が、リーマスの手のひらに染み込んでくるようだった。冷たいせせらぎに手を浸したような、心地よさに思わずリーマスは目を細めた。

「ずっとこうやって、リーマスに会いたかったの。触りたかったの。」
が微笑む。やっと十を回ったばかりの女の子なのに、その様はマリヤのような優しさに満ちている。リーマスはこわごわとその小さな手のひらを手のひらで包み込んだ。あたたかい。兎か鳥の雛か、そんな感じだ。
ひんやりしていたの手のひらは、いつの間にかポカポカとあたたかだ。
「…うん、僕もだ。」
(本当の本当に。)小さく小さくそう言ったら。がうれしそうに笑う。


「そうだ、リーマス。チョコレート好き?ほしい?いる?」
がカーディガンのポケットから 小さなチョコを取り出した。
「うん。」
リーマスは反射的に頷いて泣き出したい自分に苦笑して首を振る。

「…うん、ありがとう、。」
がリーマスの手のひらにチョコレートのかけらを乗せる。
そうだ、ずっとこうやって君になにかしたかったの。そうでないと、無力な自分がきらいになってしまいそうだった。
まだ幼くて、はそのもどかしさを言葉にはできなかった。
だからぎゅっぎゅともう一度、リーマスの手のひらを(もちろんチョコを持っていないほう)握る。

「ここにいるからねえ。」
「うん。」
「ここにいるからだいじょうぶだよ。」
なにが、とは言わなかった。リーマスはやっぱり泣き出したいような気持ちで微笑む。
「…うん。」
あんまりほっとして、泣いてしまいそうだなんて言えなかった。
これまで食べたどのチョコレートより、この小さなかけらは甘く、尊い。


アンブロシア
20070624