「おばさんは結婚しないの。」 心持ち肩を落として帰って行った往診の先生の背中を見送りながら、呆れたように子供が言うので、「そうねえ、」尋ねられたほうはぼんやり頬に手なんか当てていた。 いつもこの人はたいていぼんやりしているから、祖父母や名付け親の都合がつかないとき、こうして両親の旧友だったのだというおばさんの家に預けられると、テディはこの年上の女の人の面倒を見てやらなけりゃならなかった。なにせこの人は、テディがいちいち声をかけなきゃ朝ごはんも昼ごはんも夕ごはんも食べずに、書斎に篭って薬草相手に研究しているか、ぼーっと窓の外を見ているかのどちらかだ。何より困ったことに、毎食彼の分の料理はいつの間にかテーブルに乗っていたし、ベッドもシーツも毎日清潔で、書斎以外は女の人一人が住むには少し広くてさみしいお屋敷は片付けられている。テディひとりが数日滞在するのには、なんの不自由もない家だ。ただ、その主は、客人に関してはしっかりと細やかに気を使うのに、自身に対する配慮はてんでおざなりで、放ったらかしなのだった。それを心配しているのは、もちろんテディだけではなくて、祖父母も、名付け親も、それからホグワーツの先生方や、なにかと理由をつけてこの屋敷に寄っていく町のお医者さんや、たったいっぴきこの屋敷にいるしもべ妖精や、いろいろな人が、このおばさん―――魔法薬学の教授のことを心配しているのだった。ホグワーツではしょっちゅう、マクゴナガル校長先生に食堂に引っ張り出されている。 ホグワーツに上がる前から、おばさんの家に度々預けられてきたテディとしては、このぼーっとしているおばさんがホグワーツで教鞭をとっているなんて実際見るまであまり信じられなかったし、今でもはらはらと教室で“先生”の授業を見守っている。 けれどもそんな心配をよそにおばさんと言う人は、魔法薬学の道ではその若さで権威と呼ばれ、幾つもの特効薬を開発した、すごい人なのだった。 なのに彼女はだいたい常にぼーっとしていて、どこか遠くばかりを見ている。動きはゆったりとしていて、表情はなんとなく口はしで微笑してばかりだ。痩せていて、いつも草臥れた白衣を上から着ていた。見目は不思議と若々しく、実際の年よりかなり下に見えた。しかし百を超えた老人のように、どこか内面からにじむ静けさがある。おばさんのいる静かな世界は、とても脆く、整っていて、誰にも触れないのだった。その空間に招かれると、テディはいつも、千年もの時に置き去りにされたような気がして淋しいような感じもしたし、どこか深く落ち着くような感じもした。彼はおばさんの醸し出す空気を、決して嫌ってはいなかったし、どちらかと言わずとも好いていた。 そういう人は、少なからずいるのだということを、彼はそもそも知っていた。 さらには好ましいというその感覚がある垣根を越えて、もっと深い思いに変わる人もいる。町のお医者がその筆頭だったろうし、多分、他にもいるのだと思う。たまに贈り物をもらって、困ったように微笑しているおばさんを見たことがあるから。 テディの父親と、名付け親の親と同世代なのだから、もう孫がいてもおかしくない年齢なのだけれど(ただテディの祖父母からはひと世代下になる)、おばさんはやはり、彼の母親くらいの年にしか見えない。 …賢者の石を持ってるの?―――まさか。 …若返りの薬を発明したとか?―――ならホグワーツの教授を辞めて、特許で南の島にでも引越すわ。 …実は人間じゃない?―――さあ、どうかしら。 「結婚すればいいのに。」 そうね、とおばさんはもう一度かすかにわらって、また同じ相槌を繰り返した。 「こんなおばさん、誰も貰ってくれないわよ。」 「ジョゼ先生なら喜んでお嫁さんになってって言うと思うけどな。」 「…そうねえ、」 曖昧な微笑で、けれども同意を得られたことにテディは少し驚いていた。小さな田舎町では誰もが知っている往診のお医者さまの思いに、この人だけは気がついていないと思っていたのだ。ちっともそんなそぶり、見せなかった。 目を丸くして、見上げた子どもをちょっと見下ろして、おばさんは不思議な感じの微笑をした。 「…むかし、とても好きな人がいてね。」 なにか打ち明け話をするように、は息を潜めた。 「今でも好きなの?」 それが結婚しない理由?尋ねると、わかんないな、と小さな声でその人は少し笑ったようだった。 「ただねぇ、むかし、その人と夜の散歩に出たときに…、」 海をみたの。 もっとずっと密やかな、内緒話の響きだった。こんな昼日中の明るい光のなかで発されるべき秘密ではないような、どうやらそれは、彼女にとって、とても大事なことらしかった。 「ホグワーツに海なんてないのにね。霧が出てたの。校舎の天辺から見下ろしたら霧が一面に広がってね、闇の森の天辺だって埋れてしまっていて、私、それが海に見えたの。うみがあるわ、って言ったあとで、霧だって気がついたのよ。湖はともかく、海なんてあるはずないのに。でもその人、静かな声で、ああ、ほんとだ。海だね。って言ったのよ。」 「それから?」 「それだけよ。」 こういう微笑の仕方、なんていうんだっけ。思い出せなくて、咄嗟に彼はそちらに思考を持っていかれた。微かな、どこかおごそかなわらいかた。 「それだけ?」 「ええ、それだけ。」 That's our all.と同じ言葉を繰り返して、その人はただ口端を持ち上げ続ける。 「…恋人だったんでしょう?」 「まさか。友人よ。」 「でも、好きだったんでしょ?おばさん、彼を愛してた?」 「さあ、もう、ずいぶん昔のことだから…。」 おばさんの手がそうっとテディの頭を撫でた。さっきとは違う、ただの優しい笑い方。 ただ私たち、あの時、あの夜、細い月の下で、ふたり、同じまぼろしを見たのよ。 |
20130615 2013年3月10日のお題『オールドタイム・タイム・エッセンス』 |