リーマスはわらったまま、ほとんど倒れかかっていた。

「リーマス!!」
思わず駆け寄ったを、目だけで制してリーマスは再びわらった。足に力が入らないのだ、膝が小さくふるえている。右手を壁について、なんとか立っていた。薄い手の甲に血管が浮かんでいるのがの位置からでもよく見える。

「大丈夫大丈夫。」
おまじないのように繰り返しつぶやいて、リーマスは口端だけでわらった。


「大丈夫なわけないでしょう!」

はリーマスの様子に一瞬動けなかったが、慌ててリーマスを支えに走る。
その肩の冷たさには思わずギクリとした。なんと冷たく凍えていて、頼りないのだろう。固い骨の感触が手のひらから伝わってくる。
「ちょ、本当に大丈夫なの!」
半ば怒ったような口調になってしまったが、は肩を掴む手の力を緩めない。
乾いた肩に指先が食い込むのを感じたが、それより何よりリーマスの様子が気になった。

「…大丈夫だよ。」
リーマスは答える。
大丈夫か、なんて訊かれたら、大丈夫と答えるしかないじゃないか。リーマスはには見えないように顔を歪めてわらった。
いつでもリーマスはわらってばかりだ。わらうのは、泣くことや怒ることに比べればずっと楽だ。涙を絞り出す必要も、声を荒げる必要もない。

「大丈夫なわけあるかよ!」

が、大声で叫んだ。
リーマスはこんな事態にも関わらず、よくにはこれだけ感情表現するだけのエネルギィがあるなぁ、と感心してしまう。
声を荒げて怒る、暴れながら喚く、全身で叫ぶ、静かにあるいは大声でもしくは顔をくしゃくしゃにして泣く、顔いっぱいにあるいは小さくもしくはそっとあるいは声高く笑う。
様々に感情を表現する彼女は、その都度一体どれだけのエネルギィを消費しているのだろう。ごく僅かのエネルギィでたったひとつの表情を維持し続けるのと、膨大なエネルギィを一瞬の千もの表情に変えるのと、一体どちらが効率がよいんだろう。

「リーマス!平気じゃないならそう言いなさい!辛いなら辛いって言えば良い!何をためらうの !」
ああ。
リーマスはまた困ったようにわらった。今度は顔をあげてのことを少し、目を細めて眺めながら。
きっときみには、わからないだろうね。
リーマスは尚ほほ笑む。
僕にとっては、辛いと呟くことさえ苦痛なんだ。消えてしまいたいと叫ぶことさえ億劫なんだ。助けを呼ぶこと自体面倒で、しんどくて、辛いことなんだ。君にはきっと、わからないだろう。君にはきっと、見えないだろう。ここには、何もない。
この病からは逃れられないのに。
助けを呼ぶことも、辛いと喚くことも、悲 しいと泣くことも、それを伝えることも、すべて無駄なのだ。 そうしたところで誰に救えるだろう?きっと神にも不可能だ。
ならばそんな無駄なエネルギィを浪費するわけにはいかないよ。少しでも、抗うためのエネルギィを一月の間に身に蓄えねばならないのだから。

それに、今僕が、もう嫌だ消えてしまいたい、とでも言ったら、君はどうするの?
口からはみ出しかけた皮肉な言葉を呑み込んでリーマスはもう一度わらった。
「辛くなんかないよ。」
苦痛を超える苦痛の中に僕らはいる。
だがそれを言ったところで君に僕が救えるか否か。答えなどとっくのむかしに出ている。救えるはずなどない。この病は一生付き纏う 。
救えるだなどと、なんて馬鹿馬鹿しい。なんて愚かしい。なんておかしい。なんて茶番。なんて喜劇。馬鹿馬鹿しい。救いなどない。救いなどないのだ。
僕が死ぬまで君が隣にいてくれても、僕だけに君がほほ笑んでも、目が溶けるほど君が泣いても、君が僕を救 いたいと言ったって、君がただ黙って僕の手を握ってくれても 、例えば君が僕のこの呪われた血と骨と60兆の細胞とで構成された体を受け入れてくれたって、この空虚な隙間が埋まることは決してない。決して。決してだ。

「だから大丈夫。」
「…。」
だからそんな目で見るのはやめてくれ。リーマスは少しちゃんとほほえむ。

「大丈夫。だから、おやすみ。」

がどこか悔しそうな顔で背を向ける。君が気に病む必要はない。人にはそれぞれの、人生があるのさ。リーマスはなんだかありがちなことを考えた。去ってゆく背中にはあんまりにも、そう、新しい世界へ飛べる翅がついている。君は飛んでゆく。いつかいつか。その気になれば今すぐにだって。新しいところ新しい場所。
は振り返らない。階段を昇ってゆく。
引き止めたいような気がするのは錯覚だ。リーマスは知らず知らずほほ笑む。が遠ざかり、リーマスもまた階段に背を向けた。ココアでも淹れよう。うんと甘いやつ。
の靴音が遠ざかるのに耳を澄ませながら、リーマスはふと表情のスイッチを消した。
そうそのまま、そのままの距離だ。一定の平行線上を、僕らはのろのろと歩んでゆく。そしてその線は、見えないほど僅かに、けれど確かに離れてゆく。ふと気づいたときにはきっともう随分と遠いだろう。
真夜中の台所では見るものなど誰もいない。彼は決して笑わない。
20070603