少女は月明かりの中、白い椅子に腰掛けていた。深い紺のヴェルヴェットのドレス。行儀良く座って、少女は機能していない目玉でどこかを見ている。空は奇妙に明るくて、月はまん丸。冬の空気は冷たくて、ツクツク細かに肌を刺す。少女の襟と袖の、白いレース。青白い月の光を集めて、仄かに発光しているよう。彼女の髪も、同様だ。雪によく似た、その白銀。ブーゲンビリヤの花の下、少女は真夜中に腰掛けてうっすらと微笑んで待ち構えている。何を?
 少女の屋敷は丘の上。新緑を盛ったスプーン一匙分の小さな丘に、おもちゃみたいな屋敷は立ってる。少女はじっと、その丘の向こうを見つめていた。見えなくともわかる。近づいてくるのがわかる。彼女の"睛"は、その存在を捕らえている。野良犬が林の向こうを横切った。いとしいおんなのこの骨を銜えてる。少女はうっすらとほほえむ。もうすぐ、もうすぐやってくる。青ざめた墓石の向こう、彼女の死、ひとりの男がやってくる。
 少女の確信めいた予感のその通りに、男が一人、茨のある森を抜けて砕けた月の石敷いた小道を通って丘を登ってやってきた。長い脚を真っ黒なスーツで包んで、靴は磨かれて夜空の円盤のようにぴかぴかだ。髪をきっちりと撫で付けて、それはそれは美しい青年だ。高い背。一歩一歩がとても大きくて、彼はまるで魚みたい、夜道を歩いてやってくる。丘を登りきったところで、少女がもうきっちりと座って、そうまるで彼を待っているかのように座っていたことに、男は少し、おもしろそうに目を見開いて首を傾げたけれどそれだけだった。少し袖口のカフスボタンの歪みをさっと自然な動作で直して、男は少女の前に進み出た。青々茂った芝生が、男の靴の下で悲鳴を上げるので、少女はそちらを向いた。その空っぽの目玉が、男を透かしてその背中の満月を見るように、彼を見た。見ていないけれど、確かに見たのだ。男はそれを感じて、ますますおもしろそうに笑った。少女は椅子に腰掛けたまま、微笑している。
「こんにちは。初めまして、私は。あなたのお名前は?」
 少女がおもむろに、礼儀正しい様子で口を開いた。男はゆっくりと、優雅に礼をしながら少し上目遣いに少女を見る。彼女のその目が、その麗しい微笑も洗練された仕草も、捕らえることはないと知っているくせに。
「こんばんは、レディ。僕はヴォルデモート。」
 男は少女の、賢く礼を知っている様子が気に入った。いつものあの完璧な、うっすらとした微笑を浮かべて男は一歩少女に近づく。彼女の目にその微笑が写ることはないと知っているくせに。揃えられた少女の指先の爪が、貝のようだ。少女の様子は美しく、とても慎ましくひっそりとしているように男の目には映ったので、彼は少女に最大限の敬意を払った。もちろんそれらすべて、彼の自己満足。彼は満足している。傑作だ。今から魂喰らう少女を、姫君のように扱うのが堪らなく愉快。なんという愉悦。今なら彼は、その少女の小さくて軽い爪先に、跪いて口づけたって構わない。
 しかし少女は静かに微笑むと言った。
「そう、よろしく。リドル。」
 男の笑みが、冷え冷えと凍りつく。翼をもがれた白馬とか、角を無くした赤鬼だとかが、きっとそんな顔をする。その一瞬だけ、男は世界に対するあらゆる術を失った。しかしそれはほんとうに刹那。
「…驚いた、僕の名前を知っていたとは。」
「いいえ、リドル。簡単なアナグラム、言葉遊びよ。」
 少女の微笑は動くことはなく、その指先を月光に浸して宙に文字を書いた。黄金の文字が、宙でぐにゃりと形を変え、男の名前を綴る。屋敷の奥で、大時計が真夜中を打った。さようなら、昨日。こんにちは、明日。今は今日。真夜中は一瞬。猫が屋根の上で鳴く。少女と男はブーゲンビリヤの木の下で、一方は座り一方は立っている。男は気を取り直してまたその美しい微笑を浮かべた。少女の額の、髪の生え際を見る。その美しい形を見る。少女が自らそれを永遠に見ることがないことを知っていて、男はそれを美しいと思う。その顔の清らかな形も、その睫の先にたまった白銀も、思わず手を添えてその静脈を塞いでみたくなる細い首もすべて生まれてから一度も、少女自身見たことがないからこそこんなにも不可侵にけうらなのだと、彼は知っている。だからこそ許そう。この麗しい月夜に憎悪はふさわしくない。彼はゆったりと両手を広げるような寛大な気持ちでいる。彼はこのどうしようもなく醜く汚らわしい世界すべてを笑い出したくなるくらい愛している。殺して冒してむちゃくちゃにして、最後はポクリと喰らってしまいたい、それくらいに。
「あなたは嫌な人ですね。」
 少女の微笑は変わらない。男の歩みが止まる。
「世界はみんなあなたのものだと思ってる。自分が美しいと必要以上に知っている。その微笑が他人にどう映るのかも、ぜんぶ。」
 行儀よく椅子に腰掛け、手のひらを両膝に揃えて少女の穏やかな微笑は崩れない。逆に男の美しい顔は、おそろしく歪んだ。見えないはずだ。男は一瞬、少女のその目玉を凝視する。やはりそれは機能してはおらず、リドルの視線を通り抜けてどこか違うところを眺めている。
「あなたは悪い人だわ。リドル。そしてかわいそう。誰もあなたを本当に心配してくれたことがなかったのね?」
 それからその逆も。
 少女はそっと最後に付け加えて口を閉ざした。あの満月砕いて持ってきて頂戴とでも言うような口調だ。それは愛しているわと告げる口調でも大嫌いと笑う口調でもあった。月の光がしんしんと二人の間に積もっている。美しい夜、美しいふたりだ。男と少女は、じっと違うものを見つめながらお互いを観察し合っている。
 男は青白い皮膚の下で血がカッカと焦げるのを感じ、その美しい顔を醜悪としか言いようのないほどに醜く歪ませている。まるでそれすらも、見えているかのように、少女は微笑んでいる。
「あなたの世界はあなたのものよ。それで私の世界は私のもので、誰かの世界はやっぱりその誰かのものだわ。私たちはそれぞれ自分の世界で満足しなけりゃならないわ。そうでないなら誰かと世界を重ね合わせて、領土をわずかに共有して広げるしかないの。誰かの世界を誰かのものにすることはできないわ。世界はひとりひとりその人だけのものだもの。だのにこの地上にある世界ぜんぶを、自分のものにしようだなんて、なんて骨折り損で格好が悪くてそれでいて図々しいことだとは思わない?」
 その問いに、男はにっこりと笑った。
「いいや、ちっとも。」
 それに少女は、つまらなそうに初めて微笑を崩した。諦めたようにも、最初からわかりきっていたようにも思えた。男が笑う。
「さあ、小さな、どうぞこの哀れで物分りの悪い我儘で図々しい僕に、教えてはいただえないでしょうか??」
 恭しくも、どこまでも人を小馬鹿にしている。その声音が、ほほえみが、すべて見下して嘲笑しているのだ。白い手袋はめた指先で、自分の胸を指し示して男は頭を垂れる。その気なんて一つもないから、そんな動作も容易いこと。
 彼がつ、と顔を上げる。その口端に浮かんだ冷徹な微笑。なんて優しいその眼差し。馬鹿げた矛盾に反吐が出そうだ。汚い言葉はお嫌い?噫しかしほんとうに、反吐が出るよ。馬鹿馬鹿しい。
「さあ、教えるんだ。君の知っている鍵の在処を。」
「それは命令?」
「いいや、お願いしているんだよ。」
「なら断る権利は私にはあるわね?」
 権利?その言葉に男は声を立てて笑う。まっさおな月夜。男の声がよく響くから、あのお月様落っこちてしまうのではないかって心配になる。
「権利というのは許された人間にのみ発生する言葉だよ!」
「…。」
「そう、そして許された存在は僕!僕だ!僕ひとりだけ!この地上に!星に!たったひとりの僕!」
 両腕を広げて男が笑う。すべての人間がそうであるのよ、少女の呟きは聞こえなかったようだ。都合の良い耳。少女がうっすらと冷たく微笑む。
「有頂天ね、リドル?」
「ああそうとも!」
「圧倒的弱者に対して最初から確定されていた勝利に心酔してるのね?」
「あっはっは、噫そうだとも!心底そうだとも!」
「大人気ない人。」
「なんとでも言っておくれ!今僕はとても愉快なんだ!」
「…かわいそうね、リドル。」
 男の赤い目玉が、見開かれる。少女の美しい、微笑を見る。いっぱいいっぱいに露出された彼の瞳孔が、その奥のクリムゾンが、闇の中、光る。その赤は不吉だ。夜色の調和を見事乱している。火星の赤だ。争いを連れてくる。少女は行儀良く座っていた椅子から転がり落ちる。男は笑っていない。その目玉を大きく怒りに見開いたまま、歯を食いしばっている。彼は嫌いだ。大嫌いだ。彼は幸福な人間なのだもの、この世で一番の強者。君臨し、奪い壊し殺す自由なもの。彼はこの世の何よりも強くどのような掟も規律も良心も道徳もすべて打破する者。その自身が、哀れまれるなどあり得ない。あり得ない。醜く食いしばられた男の歯の隙間から、獣のような呻き声が漏れる。ブーゲンビリヤが咲いている。赤い花びらが落ちる。少女はまだ微笑している。男は笑わない。すばらしい気分が台無しだ。だのに噫、少女のなんて笑顔。してやられた男が呻く。ブーゲンビリヤの花の下、いっぴきの醜くも美しい生物が呻く、呻く。全世界の愛と憎悪と、すべて抱えて、少女の死体椅子の下、男が呻く。ああなんて憎らしい。骨折り損の、くたびれもうけ。もらったのはこの歯軋りするような苛立ちだけ。それだけ。そうして花が笑う。
/20081020