どこかで懐かしいお歌が聴こえている。
 夜に星はなく、細い糸目の三日月ばかり、眼を細めている。時計の秒針はコトコトと。窓辺で男は、空を見上げている。星のない夜。優しい闇夜だね。紺に藍を重ねて、タコが墨をそぉっと空に吹きかけた。そんな空だ。男の眼は不思議に若々しく、それだけ見れば少年と勘違いするかもしれない。
 窓辺で腕に顔をうずめるようにして、男はささやかな三日月を見上げている。コトコトと時計の秒針は、リズムでも刻むみたいだ。懐かしいお歌にぴったりだね。暖炉で薪が小さくはぜる。赤燈色した小さな炎は、宝石のよう。冷やして固めて水に沈めたら、水底の太陽か火星みたく、きっときらきらときれいなプリズム撒き散らすだろう。
 男の時計は止まって久しく、最近やっと不器用なリズムで進み出した。胸の中のカレンダーの日付は古いまま。懐かしいお歌、今でもあたらしく聴こえるの。

「口笛はまだ覚えてるかな?」

 男が小さく、すこし楽しそうに言葉を浮かべた。それに気づいて、揺り椅子に座っていた女は顔をあげる。その顔が夜を背景に窓ガラスに写って、男はそれを見つめながら話をした。コトコト時計の針。
 ガラスの中でふたりの目が合う。
「こんな夜だったよ、私たちがまだ若かった頃、」
 そう言って男は千年も昔を見つめるように目を細めて微笑い、大人びた口調ではなす。女は黙って聞いていた。
「影が長く遠く、黄色い道の上に落ちてたよ。星のない夜で、君は少し怖いと言った。」
 それがつい昨日のことであるかのように、男がくつりと喉を鳴らす。

「…もう忘れてるか。」

 くるりと少し振り返って、男が女をみる。ちょっと困ったような笑い方。眉を片方さげる感じが、昔からハンサムだった。
「まだなんの話だか、私にはわかってないんだけど?」
 学生だった頃から、男は主語を抜かす話し方をよくした。
 それに男は目をわざとらしく丸くして、再び窓の外を見る。椅子が揺れる。

「夏休みにさ、この道どこへ続くんだろうってジェームズが言って、荷物を持ってまっすぐまっすぐどこまでも歩いただろ。」

 もはや夢より遠い八月の話であるのだと、女は悟る。

「…ああ、ずいぶん歩いた。」
「ああ。ずいぶん歩いた。」

 窓ガラス越しに目と目を合わせて、お喋りが続く。男の眼ばかり少年のままで、やはり時は停滞している。
「一晩中歩いたかしら。」
「結局どこへ続いてるかわからなかった。」
「分かれ道にでたのよね、確か。」
「そうそう、右か左かで揉めに揉めて。」
「右へ行ったら闇の森もびっくりな森で、」
「行こうかな帰ろかなって迷ってたら、ピーターの腹が鳴って。」
 そう言ったあと、はっとその名を出したことに男は口を噤むと眉をしかめた。
 女はそのふいの沈黙をとりなすように、静かに「お腹がすいたから帰ろうかってリーマスが言ったのよ、ね。それでまた1日かけて歩いて帰ってもうみんなくたくた。」
 おかしそうにおどけられた語尾に、男もようやくぎこちなく笑った。

「帰り道、空にシリウスがでてるの、私、見たよ。」

 女が自然に、わざと昔の口調でそう言って、頭を撫でるような眼差しで男を見た。真っ暗な闇から優しい夜に帰ってきたばかりの少年は、その意味がわからず、ただ満足そうに腕を組み直した。
 星のない夜に。


20101215