(ヤコブの星)
シリウス、と自らをそう呼ばう声が背中から聞こえるならばどんなにかそれは甘美なことであっただろうか。
「シリウス、」
しかし実際その言葉は、あまやかに背後から彼の髪を引かず、常に彼の前、正面から恐ろしいまでの引力を持って彼を呼ぶのだった。
シリウス、シリウス、と呼ぶ声。
風が城壁に低く唸るように、或いは最果ての砂漠を流浪う狼の遠吠えのよう、それはなんとももの寂しく、厳しく、孤高の彼方で激しく、切実に、おごそかに哀れで、抗うことなどあたわない響きで彼を呼ぶ。
その声に気づくだけで、彼は身を捩るような苦悩を感じる。しかしその声の魅力に、彼は逆らうことができない。
夜目を瞑るだけで彼にはすべてが事足りる。
暗闇。そして静寂だ。
シリウス。
そう呼ばう声。青白く燃える遠くの炎のように、その闇に浮かび上がる。それはまさに一点の星、至上の輝きであった。しかしそれは遙か苦悶の頭上にあり、前方から彼を引っ張り、駆り立てる。
彼を呼んでおきながら、それは決してシリウスを認めない。否や否や否!そう叫びながらもその声は、彼を切望してやまないのに。
シリウスは苦しい。身悶え、喉が嗄れるほど。その声が恨めしくて憎らしくて仕方がないのに、彼にはそれを諦めることも耳を塞ぐこともできない。
いつも彼の前で、彼を拒否しながら切なく魂の奥底から叫び呼ぶその人。
いつも同じだ。全く同じ。白樺の背筋をした美しい人は、喉を潰さんばかりに振り絞りやっと小さな音を出すシリウスを少し振り返る。その目の中で燃える白。横に引き結ばれたかわいらしい口。シリウスを認めた途端うっすらとしかめられたその顔。
「ああ、シリウス。」
その存在。すべてが言う。来るな。来るな。来てはならない。
その存在。すべてが囁く。来い。来い。ここへ。なにを差し置いても。
海の底へ沈むような気分だ。息ができない。そうでないなら、星のない海に、水も食料もなく漕ぎ出す船に似ている。
「何度言えばお分かりいただけるのです?」
その冷たい声音に、シリウスは竦んだようになって動けない。
彼の自由の変わりに、永遠に失ったもの。彼だけの自由のために、彼が切り離したもの。それが彼女だった。しかしシリウスには、そんなつもりはひとつもなかったのだ。言い訳がましい言葉は、届くことはなく、彼もまた発することはなかった。
「もう私とあなたとはなんの関係もないのだから、学校で呼び止めるような真似は止めていただけないかしら。」
。彼のものであったその人。永遠に失われた人。
その唇も心もすべて欲しい。
シリウスはじっと見つめている。その目の奥で、自らの胸のうちと同じ星が燃えているのを彼女は知りながら、それでもやはり否と答えを返すのだ。彼女が是と返すことは決してないだろう。決して。決して。もしそのときが訪れるなら、彼女の片方の足が、もげて転がり、その美しい誇りが、地にまみれたそのときだけだ。
そうしてそのときが来ないことを、シリウスは誰より希い、そして知っていた。
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