彼女はシリウスから永遠に遠ざかってゆく。見えなくなる。
だんだん小さくなるその背中を見つめながら、彼は夜の海でおぼれながら空の月を見るような気分に陥った。噫いやだいやだいやだ苦しい苦しい苦しい!!喉がまるで焼けるように熱く、心臓の辺りは氷の塊に突っ込んだみたい、冷えてゆく。今までシリウスに手に入らないものなど何一つもなかったのだ。何もかもが彼のもので彼の意のままだった。生れ落ちたブラックなど関係なく、彼は好き放題に生きた。母親の狂わんばかりの愛も父の期待も彼の前では塵にも満たぬ障害であった。ただ煩く顔の周りを飛び回る蝿のように煩わしいものではあったが。
手に入らないのはごく一般のあたたかな家庭の両親と家族だとか、友人に言わせると謙虚な心だとか。そう言った産まれる前からの約束以外で、彼は重い通りに行かないことなんてなかったのだ。そう言うものがもし立ち塞がったって、力で捻じ伏せ切り捨てて粉々にして笑い飛ばしてきたものだのに。だのにあの子が手に入らない。最も焦がれて欲するものが。絶望だ絶望だ絶望だ!!!彼の自意識が叫ぶ。なんと言う屈辱だ!
内面彼の小さな心を乗せた小舟は、哀れ、ひっくり返って夜の海、沈んで溺れて叫んでいたが、シリウスはやはりその美しい顔を少し呆然とさせてクールに突っ立っているだけだった。こんなことは初めてで、どういう反応をすればいいのか分からず、ただただ内面が荒れ狂っている。なんでだなんでだなんでだよどうしてだ!そういって癇癪を起こしたいような気分がしていたのに、彼はそんな格好悪いことなぞできやしなかった。絶望だ!自意識が叫ぶ。
「……ぜつぼうだ、」
小さく呟いたら今度こそ絶望だ。失せし希望に涙も出まい。


who died of ennui.
20080803