南へ行こうと突然彼が言い出して、私はおどろいて目をまるくしてしまう。 「南?」 「そう、海を渡ってフランスを通って、イタリアを抜けて。」 季節は春だ。きっと南へ南へ下るほど、春が深くなる。さくらんぼの花が咲く丘を越えて、緑の稲穂が一面の野原へ。春の真ん中の方に、こっちから行ってやるんだよ。それは素晴らしい思いつきのように、銀の目をきらきらさせて、本当に若い頃とちっとも変わりやしない、シリウスが言うので、私もついうっかり、それがすばらしいことなんじゃないかと思ってしまう。 だってシリウスがそのしなやかな腕で示す先はもう春の海だ。海岸線をバイクの後ろに乗せられて走るのは確かに素敵だろう。 君には新しいワンピースを買おう、とシリウスはまだそのすてきな旅の計画をはなしてる。 「なぁ、。いいと思わないか?」 「そうね、とってもすてきな思いつきだと思う。」 だろう、と頬をかがやかせた彼には悪いけれど、ここで「でもね、」と言うのが私に与えられた役割でもあった。 「…私たち、お金がないわ。」 「魔法がある!」 目を丸くして、シリウスが両手を広げる。そのきびきびと杖を振るうことのできる強い腕。 「魔法でパンが買えるなら、魔法使いに貧乏はいないことになるわね。」 その言葉にシリウスはうっと言葉に詰まる。実際彼は、卒業して伯父からの援助がなくなった最近やっと、お金のありがたみが感じられるようになったらしい。 「それに仕事はどうするの?」 「休みをとるよ。」 「…とれるの?」 「とるよ。」 とると言ったら意地でもとるのだろう。彼の上司を思い、私はそっと心の中で両手をあわせる。ごめんなさい。 「…じゃあやっぱり問題は旅費よ。」 「貯金をおろす。」 「…結婚式の費用なのよ。」 「俺のをおろせばいい。」 「そんなにあるの?」 そこで初めて、彼は黙る。あー、うー、と少し短い黒髪をかいて、私のつむじのあたりに視線を落とすと実は、と言った。ほんとはずっと前からこのために貯めてたんだ、となんだかばつがわるそうに。びっくりさせようと思って、と言葉は続く。驚いた。どうやら相当以前から、この旅は彼の頭の中にあったらしい。「だから、」背の高いシリウスから降ってきた言葉は、見上げた私の額にこつりとぶつかる。ちっとも痛くない。確かにそんな豪遊できるほどの金があるわけじゃないし仕事だって休みは取る気だけどにも仕事はあるからうまく予定を合わせられるかわからないけれど。 「それでも俺はいこうと思う。」 どうかな?とそっとキスするようにシリウスが言って、それからちょっと笑った。私に頷いてほしいけれど、どうだろうか、と不安に思っているのだろう。困ったように寄った眉を見れば、彼が人が思うよりもずっと、図太くも強くもないのがわかる。ここまで言い張るのも珍しいから、きっとなにか考えているのだろうなと思うと、学生の頃から彼のすてきで、それでいて少し無鉄砲だけれどロマンチックな思いつきを知っている身として、わくわくしないわけにはいかなくなってしまう。しかたのない人。 私はちょっと黙って、(そして彼の眉がますます不安げに下がるのを眺めてから)、それから仕方ないなぁと少しばかりオーバーに肩をすくめる。 「ワンピースも、ちゃんと買ってくれる?」 それにシリウスは、もちろんだ、とほっとしたように顔中で笑うので、私はああ勝てやしないなぁと半ば呆れたように思うのだった。 |
20090313 |