練習室の扉を開けると、しんと薄暗く静まり返っている。
今日もやはり僕が一番乗りのようだ、とセブルスは少し満足げに微笑みながら頷いて、電気のスイッチをつけた。早朝独特の青い光は追い払われて、真っ白い蛍光灯の明かりが充満する。
前から2番目の、自分の席に荷物を置きながら彼はぐるりと練習室を見回した。
毎回片づけるのは大変な、大きな打楽器がひっそりと椅子の列の最奥に並んでいる。
朝一番の、このしんとした空気が好きだ。特に冬は良い。背筋がしゃんと伸びる。斜めに差し込む黄金色の光が好きだ。誰とも共有していない、楽器と自分だけ、ひとりの空気が好きだ。
席に着き楽器を組み立てながら、セブルスはひとつ深く呼吸をした。リードを水につける間に、譜面を並べて少しめくる。几帳面な書き込みと丁寧な文字。
(…さて、)
始めるか、と楽器を構えた、その時、
「おはようございますセブルス先輩!」
彼の静かな朝は一瞬でぶち壊された。
***
「先輩ここを教えてください。」
ニッコニコ目の前で笑っているに、セブルスは白い眉間に皺を寄せる。
まったく毎日、毎日、毎日!セブルスは頭の中でヒステリックに叫んだ。
毎日なんだってこいつは僕の一人の時間を邪魔してやまないんだろう!おまけにこいつの字ときたら!
じっとりセブルスの見下ろしたさきの彼女の楽譜には、走り書きと言っていいのかわからない、全速力すぎて読めない字が――彼としては字とも認めたくはない、がのたうちまわっている。こんなのダイイングメッセージで残そうものなら、事件は迷宮入り間違いなしだろう。
誰が見たってそう思うその文字は、やはりとなんというか、自身にすら判読は不可能らしく、書き込みがしてあるにもかかわらず、毎朝彼女はセブルスの几帳面な書き込みを写し、そのついでに彼にその内容を聞いて聞いて聞きまくった。
毎朝毎朝、相当な早起きのセブルスにやや遅れて、いつも彼女は2番のりで練習室に現れる。一番最初に来てしまうと、セブルスの機嫌がとても悪くなるのを一度経験済みだから。
「……どこだ?」
すべてきっちりと、なんとか読める字で書き写し終えて、彼女がにへら、と顔を上げる。その能天気な顔といったら、彼の天敵であるかの眼鏡の指揮者を髣髴とさせて更に彼の苛立ちは募るばかり。
セブルスは我ながら思う。よくもまあ毎朝自分の練習時間を潰して彼女に教えを説いてやっているものだと。
「ここです!Cの入りのタイミングがさっぱりで!」
「貴様かずれまくっていたのは!…まあ、しかし、アレだ。それはあいつの大げさな指揮のせいだろう。ここは、タン・ター・ターで、小休止。その後半拍置いて…って楽譜を読め楽譜を。」
「…つまりあのダイナミックなジャンプの後に入ればいいんですか…?」
「……ジャンプが着地してたっぷり2.5秒は溜めて、ヤツが大きく振りかぶってからだ。」
苦虫を噛み潰すように言われた言葉に、が歓声を上げる。さすがセブルス先輩!という手放しの賞賛に、なぜか疲れを感じてセブルスは眉間をつまんだ。
ああ、疲れる。
「これだけか?」
「はい?」
「聞きたいことはこれだけか。」
「いえ、まだあります!」
ああ。
セブルスは今度こそぐったりと椅子にもたれかかった。毎朝この調子ではいつか僕は倒れてしまうに違いない!と言いながら、が学校に入ってきてもう1年にもなろうとしている。それにもかかわらず彼は倒れたりなんてしなかったし、ましてややっぱり、これまでの3年間と同じように、無遅刻無欠席を誇っていた。
次はねー、ここなんですよ先輩!と次々指差すに嫌そうな顔をしながら、それでも彼は根気強くひとつひとつ指示を与えてゆく。彼の長く少し荒れて乾いた指先が五線をなぞるのは、何故だろう。なんだかとても艶めかしい。
ふと、顔を横に向けて、の顔を見ると、彼女は鼻の先を見事に赤くして、わずかにず、と鼻を吸った。そういえば今朝は酷く冷える。
「…寒いか?」
ため息ひとつと共に吐き出された言葉は、白い雲と一緒に彼の口から飛び出した。こんなに冷えていたのか。気づかなかったとセブルスは目を見張る。どうりでが真っ赤なマフラーをしたままなわけだ。
「あ、は゛い゛。」
すでに鼻声のにまたひとつ息を吐いて、セブルスは立ち上がった。まったく管楽器奏者が鼻風邪なんて話しにならない。
暖房のスイッチを捻ると、ごう、と生暖かい風が吹き出した。が目に見えてほっとしたように頬を緩める。その細い指先はかじかんでいるようだ。しきりに擦り合わせている。
まったく馬鹿な娘だ。とセブルスは席へのそのそ戻りながらしずかにもう一度、ため息を吐く。こんな朝早くに、マフラーに薄っぺらなコートを着て。寒いだろうとか暑いだろうとか、そんな気配りは無縁の男に教えを問うてくるこの馬鹿娘。
「大丈夫か。」
「あ゛、はひ。大゛丈゛夫゛でず。」
「大丈夫に見えんがな。」
なにが大丈夫なのかセブルスにはまったくわからない。呆れた目で見やると、じゃあ鼻かませてもらっていいでずか、と鼻を鳴らしながら彼女が問うた。
「…どうぞ。」
「でば、遠慮なぐ。」
チーン、と思い切り鼻を噛んで、すっきりしたようだ。セブルスの呆れたを通り越した視線もなんのその、がセブルスを見上げてまた例の、にこにこっと言う顔で笑った。
「セブルス先輩!じゃあ次ここ教えてください!」
「貴様まだあるのか!」
「まだまだあります!」
「威張るなァ!」
「はい!あ、リード割れました。」
「貴様真面目にやれ!」
セブルスが声もあげるもはまるで気にしてもいないようだ。すみません、とにこにこ笑いながら新しいリードを手に取る。
彼女のリードケースの中にはいつだって綺麗に削られたリードがきちんと並んでいる。彼女のきちんと切りそろえられた淡い色の爪先。真っ赤なマフラーに時折うずもれる口元はまだ寒そうだ。
楽器を吹くときはマフラーを外せ、とはまだこの室温に言えなくて、セブルスは無愛想な顔をしながら、楽譜を指差した。
「ここはできるようになったのか?」
「はい!一応は!」
「…ふん。」
指摘した部分は次の日までには直っているのを知っている。が嘘や適当を吐かないのを知っている。だからだろう。毎朝練習に付き合ってやるのなんて。
セブルスはそう思う。
決して決して、毎日ありがとうございました!って最後に大きく笑うを、楽しみにしているわけではないのだ。
部屋もゆったりと、あたたかくなってきた。指を曲げて伸ばして、がニッと笑いながらセブルスを見る。
「…では始める。」
凍えていたぎこちない指も軽やかに踊り始める。セブルスの機嫌はなんだかんだでそんなに悪いものでもない。一生懸命楽譜を見下ろしているの頭のてっぺんあたりを見下ろして、セブルスは誰にとも知れず呆れたようにそれでいて微笑むように少し息を吐いた。
「そこ、違う。」
滑らかなワルツには程遠い。それでも。
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