01.窓辺の人


 むかしむかしのことだよ。とても優しい人がいてね。

「ソル。良い名だね。古代の言葉で太陽の意味だ。」
 パタリと本を閉じながら、ゆったりとそう言った人の言葉が、彼には一瞬わからなかった。今なんと言われたろう。その人の口から出た自らの名前は、聞きなれていたものとずいぶん違って聞こえたのだ。きょとりと目を見開いて見上げられていることこそ不思議だと言うように、その人は首を傾げた。そのまま白い腕が、手にした本を"ソル"に向かって差し出す。
「これでしょう、探し物。」
 疑問文と言うより確認するような声の調子で、語尾が上がらない。その言葉におずおずと頷くと、さらにズイと本が鼻先に寄せられた。受け取る。するりと手は離れて、またその人の膝の上に戻った。
 無色の派閥―――といっても派閥を自称する過激な一派でしかないのだから、青や金の本部ほど立派で大層な建築物を有するわけではない。しかしその当主であるセルボルト家の屋敷は、人目を忍んで地図にも乗らぬ僻地にあるにも関わらず、大層立派なものだった。本部、と呼んで遜色ないその邸には、多くの召喚士と当主に雇われた兵士や暗殺者、召喚獣が出入りしており、それと同じだけの人間が生活してもいた。は邸の図書室を取り仕切っていた。邸にはたくさんの彼の兄弟姉妹たちが住んでいた。生き延びるため、認められるために誰もが必至に暮らしていた。当主は、彼らの父親は、徹底的な実力主義者だった。そこに血縁の情やなさけなどという物は欠片も存在しなかった。彼にとって世界のすべては、おそらく自分のため、真理に到達するためだけの、道具にすぎないのだった。だから彼は、より自らの助けとなる"物"をのみ傍に置いた。役に立たないと判断されれば乳飲み子でもすぐさま叩き出された。それならまだいい方だ。実験の材料にされたり戯れに殺されたり、子供たちはいつも危うい綱渡りをするような暮らしを送っていた。望まれる子供は、ほんの一握り。本当にこれだけの数の子供が、すべてあの父親の血を引いているのかと思うと笑えない。残った子供は少数で、ここにいる子供以上の幼い命が消されている。おぞましいことで、しかしそれを生まれた時から当然としてきた彼らのほとんどは、それを嫌悪するだけの情緒が欠けてもいた。父が第一に望むのはたったひとつ。強い魔力を持ち、召喚術に優れること。それ以外の子供に存在する価値はないと言っても等しい。生まれ落ちたその時に、魔力を継がぬ、あるいは弱い魔力しか持たぬとみとめられればその場で死ぬ定めだ。最初の"剪定"を潜り抜けても、使えぬ魔力に意味はない。よほどの魔力を持っていない限り、召喚術の勉学に劣るとされる者は死ぬ定め。彼は産まれた時、幼い時、少年期に差し掛かる時の"選定"こそクリアしたが、『優れている』子供ではなかった。それでもこの齢まで生きているのは、召喚術の他の技能を磨いたからだ。父親の望む、第二の、第一と並べて第二とするにはあまりに小さな、気まぐれとも呼べる条件ではあるが、それはただただ『使える』ことだ。父の手となり足となり盾となり剣となるその才が、彼の飼う専門家に勝るとも劣らぬと期待される時だけ―――魔力や召喚術の技能が足りない子供も生き延びた。
 ソルの召喚術士としての才は、『並』である。並と言っても、選り抜かれた者たちのなかでの並であるのだが、そのようなこと、言い訳にもならない。彼は短剣を器用に操った。父曰く、母に似たのだ。戯れに手を付けた暗殺者との間にできた子供。それが彼だ。彼はその才を認められた。母に似たなと暗い愉悦を含んだ笑みで父親が言う。
 ソル、とその名を与えたのが父であるのか母であるのか、それともまったく別の他人であるのか、彼は知らない。
「……、」
 召喚術の本だ。それでも本当はその道で力を示すことのみが、父に本当の意味で認められることだと知っている。黙ってその赤い本を握る無表情な子供に何を思ったか、その人はコトリと首を傾げた。膨大な書物を納めた書庫に、司書はただひとりだ。一般的な書物から代々伝わる禁書まで、この混沌ともいえる尋常ではない量の資料の内容と位置を、すべてその頭一つで把握している。もとは召喚術士として雇われたらしいが、その類を見ない記憶力を買われて図書室の長となった。
 梯子の上に座り、首を傾げるその人の背中から光が落ちていた。逆光で顔の輪郭が金色だ。この人は多分、姉、ではないだろうと思う。ならばここにいる姉いもうと以外の女の人は、みんな、父の"もの"だ。
「修業はつらいですか。」
 かけられた言葉の意味がわからず、やはり彼は目を見開く。
「君は武道でも期待されているから、召喚術と剣の修行と、ふたつこなさなくてはいけないから大変でしょう。」
 当たり前のように、すべて知っていますよという口調だった。それが当然なようにソルにも思えて、特に腹立たしくは思わなかった。二つの厳しい修行を抱えることになったのも、すべては自分の召喚術の技量が足りないためだ。顔もぬくもりも覚えていない、"優秀"だったという母の名に、助けられた。その母と同じだけ、殺すという働きを期待されて。
 暗く沈みかけた子供の目に、ひょいと白い手のひらが写った。
「…これをどうぞ。」
 小さな、彼らがいつも勉強に使う本に比べるとずいぶん薄い。
「なんだ、これ。」
 初めて事務的な用事以外で口を開いたソルを見下ろして、はおかしそうにわらってみせた。わらう。その動作はあんまりこの屋敷では珍しい。きらきらとその人の胸元で白い宝石が光った。
「私のお気に入りです。暇潰しや眠れない夜のお供にどうぞ。」
 それがという人だった。






201207~0812