02.かすがい


 それが兄だと言うことは知っている。自分と違い、『優秀』な召喚術師だった母を持ち、本人もまた、えりすぐられた子供らの中でも極めて『優秀』な子供。だから名前も知っていた。呼んだこともないけれど知っている。『優秀』だから。
 思わず「あ、」と声を上げたソルに、彼もまたおやと顔を上げた。いかにも賢げな眼差しは深い紺碧の色をしている。自らのハシバミの瞳を思って、全然似てない、と心の中で呟く。全然似てない。兄弟なのに。黙っているソルに、困ったように兄は首を傾げた。少し微笑ったようだった。それはこの場でひどく新鮮なことで、彼は驚いて目を丸くする。
「ええと、…ソル。」
 名前を呼ばれて二重に驚いた。今度こそ目を真ん丸にした彼に、「当たりかい?」、ほとんど確信を持ってはいたのだろう、それがあたりで間違いないらしいと兄の方が肩を撫で下ろす。どうして自分の名を知っているんだろうかと彼は思案している。特に『優秀』でもない、本来望まれている役目とは別の仕事に、辛うじて引っかかっているような子供を―――。
「どうして、」
 そうとだけ言葉が口から勝手にはみ出した。それにきょとりとして、兄が、キールが首を傾げる。
「だって、僕の弟だろう。」
 知ってるよ、そう言った。どうしてだろうか、こいつが嫌いではない。ソルはそう思った。どの子供も、みんな生きるために兄弟姉妹を蹴落とすのに必死だとそう思っていた。だから自分も、そうするのは当然だ。自分の居場所を守らなければ、死か、それ以下の苦しみが待つばかり。暗い邸の中、背筋を伸ばして立っているこの兄の存在はどこか異色だった。優秀な召喚士なのだから、その呼び名に見合った、冷徹で、おそろしいような少年を想像していた。
 ふいに誰かに似ていると思い当たる。
「―――あ、」
 ソルが声を発するよりも先に、キールが彼が抱えていた本を指差して、まただ、微笑った。
「"暇潰しや眠れない夜のお供"。」
 物静かな微笑も、伸ばしっぱなしの前髪も。少しに似ているとそう思った。

*

 ―――キールというのは、舟が進むために一等重要なパーツのことですよ。竜骨といいます。良い名だね。
 やはりそうやって声をかけられたのだとキールがおかしそうに笑った。
「そんなこと初めて聞いたからね、気になってどれだけ調べても、キール、がそういう意味だと載っている本はなかったよ。」
「…嘘ってことか?」
 そうひそりと眉を潜めた弟に、キールはどうだろうか、とやわらかく苦笑した。
「嘘ではないと思う。し、」
「ん?」
「嘘ではないといいなと思うよ。」
 ―――ソル。良い名だね。古代の言葉で太陽の意味だ。
 初めて彼は、意識せずに多分ほんの少し、口の端だけで微笑した。
「…そうだな。」
 隣に腰かけた兄が、ぷらんと足を揺らした。どうしてか、同じように隣に腰かけて、その動きをまねてぷらんとさせるのが"楽しい"と思った。楽しいはうれしいこと。暇潰しや眠れない夜のお供の本に書いてあった。"うれしい"は優しいこと。優しいことは、いいことだ。自分たちを傷つけない。それはいいこと。いいことだ。
 三日に一度、新しい本を借りた。
 暇潰しや眠れない夜のお供のページ数は、借りる度に厚くなる。






201207~0812