05.君の魔法


「まったく、読むのが早いので追いつかない。」
 と眉をしかめてが言う。けれどもちろんそこに棘は含まれていないから、ソルは安心して、暇潰しや眠れない夜のお供、の催促をすることができた。
「これはあくまで"暇潰しや眠れない夜のお供"なのだから、あまりこればかり読んでいては修行に障る。」
 そう言いながらしっかりと次に貸し与える本を吟味してくれている人の横顔を見ながら、ソルは少し、ほんの少し口端を持ち上げる。父の役に立つ子供でなければ、ここにいる必要はない。だから子供たちは、懸命に自らを鍛え優れた道具たらんとする。自ら怠れば、待つのは"用済み"、"役立たず"の烙印だけ。それは死を意味する。仕える優れた"道具"であり続ける、それだけが彼らの存在意義で、それ以外に父親に認められる術はない。
「なあ、。」
「なんです。」
「俺、外へ出るんだ。」
 その言葉の正確な意味を判じようと、の目がまじまじとソルを見た。
「仕事だよ。」
 いつの頃からか常に持ち歩くようになった短剣を少し鳴らして、肩を竦める。の目はじっとソルの目を見ている。
 "暇潰しや眠れない夜のお供"で彼はずいぶん今まで知らなかったことを覚えた。それはきっと父親にはよい顔をされるはずのないことばかりなのだろうけれど、覚えてしまった。知ってしまった。忘れられない。兄弟姉妹はみな、自分のことばかり考えていて、他人を蹴落として残ることだけを考えているものばかりだから、自分も同じようにしていいのだと思っていた。思っている。今も、一部に関しては。けれど。
「行ってきますを言うから、」
 が一度頷いた。
「おかえりを、」
「言うよ。」
 ゆったりとが頷く。いつも本をばかり持っている手が、ソルの手に添えられた。
「行ってらっしゃいも言う、おかえりだってもちろん言う。帰っておいで…とてもつらく、くらくても、…それでもここは、君の家だ。」
 そうならいい、とが微笑んだ。
 ぜんぶに同意はできないなと思ったけどソルは黙っていた。この家でソルに優しいのは、この図書室のの周り半径1メートルと、キールという兄だけだ。キールもいってらっしゃいとおかえりと言ってくれるだろうか。つい先日まで、自分がこんなことを考えるようになるなんて想像もしなかった。もっと早くに、図書室を使えばよかった。
「…?」
 ふいにか弱い声が飛び込む。
 はっと手を離して振り返ると、少し、自分によく似た女の子が立っていた。茶色くて短い髪、まんまるで少し端が吊り上ったような眼、不機嫌そうにも不安そうにも見える小さなくちびる。細い肩。妹だろうと思った。何人もいるだろううちの一人。
 ああ、と安心したようには息を吐いて、少女を手招く。
「カシス、」
 その子供の名だろう。呼ばれてとことこと、しかしソルの方を気にしておどおどした表情でカシスと呼ばれた子供が歩いた。自分とそんなに年は変わらない。じっと見下ろす彼の眼差しにおびえているようにも、いどみかかるようにも見える子供の目は強い。
「君もほら、言ってあげなさい。」
 に何を言われているのかわからない、と子供が眉を潜める。
「行ってらっしゃい、って。君の兄さんに。」
 初めての響きにソルはうろたえる。じいっとカシスの目が、ソルを見上げた。じいっ。なんとなくいたたまれなくて、彼はぐっとお腹の下に力を込めて見つめ返した。
 やがてカシスの口端が、ゆっくりと持ち上がる。
 びっくりするほど、"ちゃんとした"笑顔だった。白い歯がこぼれる。
「行ってらっしゃい、ソル。」
 子供の口からこぼれた自分の名前に愕然とする。
 どうして知っている?
 眦を避けんばかりに見開いて首を傾げた彼の耳に、のわらう声が届いた。
「兄妹だからね。」
 なかよくしてあげてね、とがわらう。
 ―――そうしていつか、たいようになって。






201207~0812