01.森の中で

in the forest




 深い緑の森だった。明るい光が落ちていて、森の中であるにもかかわらずあたりは明るい。静かに木影が歌うような。
 それはまるで不思議な光景で、彼はしばらく目を丸くして、言葉を失くした。
 ちょうどぽかりと開けた場所には、明るい光と緑の風が、ゆったり渦を巻いていた。鳥がどこか、木々の向こうで鳴いている。小さな囀りは、まるで遠くで楽の音が鳴るようだ。
 森の小さな広場の真ん中、倒木の根元に、子供が小さく丸くなっている。
 子供と言っても、年の頃はリューグと同じくらいだろうか。胸に手をやって、なにか大切に抱きしめるみたく、膝を折って身体を小さくまるくしている。あまりに長閑な風景で、一瞬リューグは、自らの結構切羽詰まった状況を忘れた。きれいな頬に、やわらかい風がひとつ。耳元からこぼれた髪がふぅわりと揺れる。
 あんまり平和な光景だ。緑の草がさわさわ揺れて、花がひとつお辞儀する。健やかといえば良いのか、締りがないといえばいいのか、しあわせそうな寝顔。思わずつられて、欠伸の一つも出そうなくらい。
 まじまじとその様子を見やって、リューグはふっと不思議なことに気がついた。少女の額。滑らかな形。その額の眉の上、指三本分くらい。そこが不自然に、盛り上がっている――いいや、なにか生えているのだ。それはまるで獣のものに似ていて、角、としか言いようがない。目を瞬かせて、もう一度確認する。やはりそれは角にしか見えず、リューグは目を見開いた。
 角。
 そうとしか、リューグはそれを形容する言葉を知らなかった。親指一本分くらいの長さだろうか。しかし立派な角を二本生やしたその姿は、異形、としか言いようがない。
 少女の閉じた目蓋の形は優しげで、人間のものとそっくり同じ。胸元で握られた手のひらも、見慣れない服装の襟元から覗く首筋も、人間のものとかわりないように見える。
 角を生やした人間を、何と言うかは知らないが、しかしそういった"普通"の人間と異なる者をなんと言うかを、彼は知っていた――召喚獣。
 はっとして辺りを見渡すも、森の気配は平穏そのもので、害意も敵意も感じない。むしろ目の前に展開されている平和そのものの光景に、心配する必要もないように思えてしまう。しかし彼は召喚獣というものが、見た目にそぐわぬ大きな力を持っていることも知っていたし、神経を尖らせるだけの理由もあった。
 もう一度じっくりと、眠っている少女の形をしたそれを眺める。淡い萌葱の上着――つい先日まで同行していた冒険者の、女性が着ていたものに形が似ている。その上に白い花が幾つも散っていて、一瞬リューグは、それが模様なのか彼女の周りに咲いた花が散って服の上に乗ったものなのか判じかねた。ゆったりとした形状のズボン、これもまた彼女が着用していたものに似ているが、裾の部分が絞られていて動きやすそうだ――は群青色をしている。どちらもやさしい色彩だ。彼が敵対する、真っ黒な軍団とは、縁はないように見えた。
 そうなるとずいぶん可能性は絞られてくる。
 辺りに人の気配はない。召喚主のいない召喚獣、とくれば話は簡単だ。はぐれ召喚獣。だからリューグは、あくまで用心しながら、そっと眠ったままの少女に近づいた。すうすうと寝息をたてているので、おそらく本当に眠っているのだろうが、わからない。はぐれ召喚獣の中には、理性を失って暴走するものも多いと聞く。しかしどうにもこの少女は、緊張感に欠けた。

「…おい、」
 一度目の彼の問いかけに、少女は答えなかった。まだぐっすりと眠りのなかにいるようで、微動だにしない。どうにもその平和ボケした様子は、やっぱり緊張感に負ける。
「おい。」
 もう一歩近づいて、彼は声を大きくする。やっと少女が、小さく身じろぎをした。ん、とその口から、声が漏れる。猫のように丸まった身体が、もぞもぞと動く。
「んー…あと、…五時間?」
「長ぇよ!!」
 彼が思わず大きな声を上げた途端に、少女はびくりと目を見開いた。大きな目玉がぱちくりと見開かれて、リューグを捕らえる。まだ寝ぼけているようだ。緑の光が、白い頬に落ちる。なんだか寝起きの悪かった、妹のような少女を思い出す。ますます緊張感に欠けて、いけない。黒い髪に、目玉は不思議な虹彩の具合で菫色をしている。
 ふうと一度大きくため息をついて、リューグは腰に手をやった。
「おい…、おまえこんなところで何してんだ?」
 はぐれに襲われても知らねえぞ。もちろんその言葉は、半分以上わかっていて言ったのだ。妙に確信がある。この少女は"はぐれ"だ。
 彼女が一度、ムンと伸びをして、それからリューグを見た。額の角がやはり不自然で、しかしたしかにしっくりと馴染んでいる。じっと揺らぐこともなく大きな瞳に見つめられて、リューグは少し押されそうになるが、持ち前の仏頂面でぐ、とこらえる。他人からは、まったく動じていないように見えるに違いない。それくらいに彼の無愛想な顔には、年季が入っている。
「…君、……誰?」
 なんとも間抜けな間が開いたと、リューグは後々になってもそう思う。その時も思った。間抜けだ。
「…テメエこそ誰だよ。」
「私?私はだよ。…君、リィンバウムの子だね、初めまして。」
 ニカリと笑って少女が言う。初めまして。やっぱりその額の日本の丸い角は、不思議と不自然だったけれど、もうあんまり気にはならなかった。君の名前は?とのんきに訊ねるその声に、リューグはしばらく言葉が見当たらなくて黙った。長閑に光が差していて、森は緑。リューグの赤い髪に、まるで少し笑うみたく落ちてた。