27.剣と爪、剣と牙

Fingernail and fang



 ルヴァイドの剣が、振り下ろされる一瞬。遠くからは判じかねたが、はわらったようだった。その途端、から弾けたまっさおな光。
!!!」
 を中心に風が巻き起こった。なにも見えない。
 腕で顔を覆い、思わず衝撃に目をつむったリューグに、オオオオオオオオオオ――――ン、といつか聞いた"音"が答えた。オオオオオオオオオ、と響いたそれ。太く、高く、低く、遠く、人の発するものではないもの。どこか物悲しく、力強く、鼓膜をビリビリと震わせる咆哮。
 しかしそれは、以前に聞いたものとどこか違った。
 もっと強く、もっと低く、もっと、―――
 リューグはぞっとして目を見開いた。
 ―――ひとではない。

 が立っていた。真黒な髪が、さらさらと風に解けていた。うつむいた瞳。ルヴァイドが驚愕の瞳で、少女を見下ろしている。の剣は地面に打ち捨てられ、その手が、大の男の一撃を止めていた。刃を握った手のひらからは、血がこぼれる。しかしそれだけだ。さきほどまで力なく垂れていた右手。動いている。
 リューグは黒騎士の表情を見、さきほどから彼が、少女の手のひらから剣を引き抜こうとしているのだと悟る。しかしその手のひらが、切れることも開かれることもなく、ただ、刃を握り、じっと立っている。ほたほたと垂れる血。
 その額の角。
 ―――つの。
 それはずいぶん、長くなっていた。常ならば親指一本分ほどの長さであるのに、の肘から指先くらいまでの長さがあった。うつむいたままの、が、ゆらりと動く。
 刹那。
 激しい衝撃音と共に黒騎士が宙に舞った。空中で受け身を取りながら、ルヴァイドは地面に転がると立ちあげる。何があったのか把握し切れていないようだった。
 地面が大きく、抉れている―――。
 いつか見た光景を、より、悲惨にしたもの。水の動きとは違う、炎の、いや、雷の動き。台風、竜巻?ちがう、そんなものではない、天を駆ける鉄槌の力。これはなんだ?
 リューグの背中を冷や汗が伝う。
 戦闘の場面であるというのに、リューグを追ってきたイオスも、続々と集まりつつある兵たちも、唖然と立ち止まっていた。

「お、に。」
 娘が振り返って言う。
 黒い髪の隙間から、青く発光する菫の目玉が覗く―――その目には白目がない、すべて、まっさおな、菫色。額の長い、長い角。異形だ。鬼だ、鬼の娘だ。
 これが鬼だとが言う。
「おに、」
 が地面を蹴ったのだと、それだけは分かった。

「!!!」
 すぐリューグの真後ろにいたイオスの顔面を、が手のひらで覆い尽くしそのままの勢いで地面に引き倒していた。
 ルヴァイドの目の前から一瞬でここまで―――駆けたのだ。すぐ隣を掠めた藤色の物体こそだった。驚きに声も出ないイオスが、しかし槍を倒れたまま娘に突き出す。はそれを角で止めて、そのまま宙へ跳び上がった。
 忘れられていたような時間が動き出す。奇妙な恐怖と熱を帯びて。
 兵たちがひとりの少女に恐怖からか剣を槍を斧を構え、雄たけびを上げてつっこんでゆく。その切っ先が、少女の体に吸い込まれる―――、
、」
 一瞬兵たちに埋め尽くされる瞬間、がわらったようにリューグには見えた。
 ドン、と爆発するような音。
 圧し折り、打ち砕く、重たい音。悲鳴が上がる。土煙と、血、悲鳴。の爪と、の牙と、の角が、兵たちを撃ち砕いてゆく。
 リューグの隣を、黒い風が掠めた。
 黒騎士。
 雄たけびを上げながら、鬼の娘へ突っ込んでゆく。
「これ以上部下に傷はつけさせんぞ―――!!」
 やはりその腕が、刃を返した。折れていたはずの腕。いつもの腕を覆っている金属の防具ですら、なにか違う、まがまがしいもののように見えた。
 受けた刃をが拳で叩く。その時腕が、ありえない方向に折れ曲がっているのがわかった。やはり折れている。衝撃にルヴァイドがよろめく。背後から突き出されたイオスの槍を遊ぶようにいなしながら、は名前もない兵たちを手のひらでそれこそ真実、地に沈めてゆく。
 弓がストン、と夢のように彼女の腿に刺さった。
 それを無邪気そうに、きょとんと眺めてが弓兵を見る。逃げろと叫ぶルヴァイドの声。立ちすくむ弓兵。
 まだおれとおなじとしくらいの、
 リューグがハッとする間もなく、はその弓兵の前にいた。
「ヒッ…!」
 少年の悲鳴。ぐしゃりと人間の、潰れる音。
 誰かが叫んだ。

「…去レ。」

 無機質なの声。
 ガウンガウン、と突然割り込んだ銃声に、が身を捩って宙へ跳び上がることで逃げる。人ではない動きだ。ほんとうにまったく、重力など知らないような。
「我ガ将ヨ!」
「ゼルフィルド!!」
「シルターんノ鬼神…暴走シテいマス。危険カト。」
「止むおえぬ―――撤退する!」
 黒鋼の機械兵士が、まっすぐに銃口を向け、弾丸を雨あられと発砲し続けながら、ルヴァイドを背に庇う。タラララララと降り注ぐ銃弾を踊るように避けて、いいや、踊っている。が踊っている。鬼が踊っている。獣のように、手も足も使って駆けている。その速いこと、つよいこと。
 弓兵の体をポオンと放り投げる。
 波が引くように、黒い兵士たちが撤退を始める。どれもが怪我を負い、仲間を背負い、背負われるようにして。地面にあいた幾つもの穴。人間だったものたち。死体を引きずって、ゆくものもある。強い力に押しつぶされて、完全にねじ曲がった人の体―――。

!!!」
 リューグはようやく、その名を叫んだ。
 鬼の目がを見る。トン、と地面を蹴る軽い音。
 すぐ目の前に、真っ青な鬼の目があった。感情のない目。その目が不思議そうに、リューグを見る―――。
「ぐがっ!っつう、この!」
 馬鹿力。
 文句を言おうとして声が出なかった。
 の細い指先が、ありえない力でリューグの首にかかっていた。
「ぐぅっ…!!」
 の目。
 なにもわかっていない。指の力は弱まるどころか強くなる。

「とうそうのにおい、」

 獣のような低い男の声と、の声と、鋼をすり合わせるような声。三つがいっぺんに、少女の喉から鳴った。
「りゅーぐ、」
 名を呼ばれたことに、リューグが目を丸くする。
「あのこ、…どこ?」
 ふいに首の力を感じなくなった。そんなはずはない、変わらぬ力で締められている。しかしその瞬間、リューグの時が止まった。痛みも苦しみも、なにもかんじない。
 力の入らない腕を持ち上げて、の手を掴む。地面から自分のつま先が離れていることにいまさら気づいてぞっとする。そうしてもう片方の手を、前に。
 の額ごと、頭に載せた。

、」

 締められた喉から辛うじて出た音。
 鬼がはっと瞬きをする。その眼に、白い部分が返ってくる。いまだ発光する目、しかしその目には正気の光。不思議そうにリューグを眺め、そしてその目にふいに走った怖れに、はっと慄く。
「リューグ?」
 ふっとその手の力が抜けた。地面に落されて、リューグは激しく咳き込む。そうしてを見上げて、やはりリューグは言葉を失った。
 はその長く伸びた角の先端に、手のひらを当てていた。ほとんど突き刺さっていた。そうして必死に、角を、額に押し込めていた―――。
 の口から悲鳴ともつかない苦痛の呻きが迸る。
!!」
「ぐ、ガア、」
「止めろ!」
「あああああああああああ!!」
 ズブリと角が、額に埋まった。いつもより少し、ほんの少し長いだけ。はぐったりと地面に手をついて、荒い息を繰り返している。その目から涙が、体中から汗が、頬からも腿からも腕からも、いたるところからは血が出ていた。腕がすっかり、違う方向を向いて、力なく垂れている。
 人間だ。
 いつかの晩、リューグがそう感じた、赤い血が。