31.一対の角 |
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窓から差し込む月光を受けて、は背筋を伸ばして座っていた。 起きている。 リューグはどこかでそれを知っていたから、特に驚きはしなかった。布団の中で、上半身だけ起こして、は窓の外を見ている。遠くに潮騒の音。青白い光が、彼女のまつ毛の上に溜まって、なんだか少し厳かな雰囲気だった。 「…おい、」 小さく声をかけると、が振り返って笑う。 「リューグ。…来たね。」 やはりその微笑は、リューグが来ることを知っているようだった。リューグがの起きていることを知っていたように、もまた、リューグが来ることを知っていたのだろう。 「怪我、だいじょぶ?」 真夜中はひそやかに。そっと話すに、ゆっくりと近づきながら扉を閉める。昼間は結局、アメルの仲間たちにが囲まれっぱなしで、ちっとも話せやしなかった。 「そっちこそ大丈夫なのか。」 「うん。アメル、すごいねえ。」 月光は明るく、のへにゃりと笑う顔がよく見えた。 包帯でぐるぐる巻きにされてはいるが、アメルの”奇跡の力”で命にかかわるような怪我はほとんど傷口が塞がっている。首から布で吊った右腕の先を、少し曲げたり伸ばしたりしながら、は感心したように微笑んでいる。 少しそこから目を移すと、夜の海が見える。銀砂の浜が遠くで名前の通り、銀に輝いていて、水平線の向こうが同じ色をしている。波音。もうすっかり聞きなれたような、やはり懐かしいような、しかし初めて聞くような―――不思議な気分がして、リューグは再びに目を落とす。 「テメエ、」 「ん?」 は妙に穏やかだった。 ―――つの、伸びてねえか。 なぜかその言葉を投げかけるのがためらわれた。なんとなく、リューグにはそれがを自分から遠ざける言葉のように思えてならなかったのだ。 だから黙って、布団の際まで移動するとどっかりと腰を下ろした。不機嫌そうな顔はいつものことで、は目を丸くしている。 「…手。」 「て?」 「手、見せてみろ。」 きょとんとしたままのの手のひらを、半ば強引に掴む。 もちろん怪我に障らない程度に、ではある。吊られている方と反対の、自由になる左手のひら。 角を押し込めようと両の掌をその先端が刺し貫いた光景が嫌に目に残って離れなかった。 いつか花だな、と思った小さな手のひらを開くと、その真ん中に、赤紫になって塞がっている傷跡があった。表面はひきつってはおらず、ただそこだけ、色が違う。それはまるい花の形にも似ていて、リューグはかすかに眉を顰めた。 「…塞がってんな。」 「うん。アメル、すごい。」 同じことをもう一度が言って、くすぐったそうに笑う。 右手も同じようになっているのだろうな、とそう考えながら、リューグは一度、なにも考えずにその傷を触った。 「痛くねえのか。」 「うん。もう痛くない。」 「…ふうん。」 ふうんってなに。がちょっと笑って、リューグは機嫌が悪そうな顔をする。もちろんただ、照れているだけだ。しばらく沈黙が降りて、波音だけ響いた。なんとなくすることがなくて、リューグは無意識に手のひらを掴んだままでいた。 「…これからどうするんだ?」 やがて一番聞きたかったのかもしれないことが、すんなりリューグの口からこぼれた。 「どう、って私も受け入れてもらえるみたいだし、リューグと一緒に仲間に加えてもらおうかなあ。アグラおじいさんともアメルを連れてくるって約束したし。」 「―――そうか。」 なぜかほっとしている自分に、リューグは気づかないふりをする。 たった一人で旅団の主力を追い払ったが加わるとなれば心強いと、昼間アメルたちも喜んで、それにがよろしくと頷いている場面も見たはずなのに、なぜかこうして本人の口から念を押されて安心している。 ふいにリューグは、がじっと自分を見ていることに気がついた。 瞬きもしないで、菫の目が見つめている。青い光の中、やはりどこかおごそかな気配。 「……リューグは、」 が自由になる左手をそっとあげた。 手のひらから離れて行った熱を、少し惜しく思う。離れた指先が、リューグの首に、そっと触れる。 「私がアメルたちについていってもいいの?」 指の痕がついているのは知っていた。 の声は初めて聞く、不安げで細い種類をしている。 その質問の意味を、判じかねた。 ただ黙ってリューグはの目を見返していた。 「また”暴走”するかもしれないよ。」 リューグは暴走したに殺されかけたことを誰にも黙っていた。もちろんも、友好的で警戒の薄い一行の様子にすぐそれを察した。 なぜそれを話さなかったのか。 リューグの中では簡単なことだ。話す必要の、ないことだから。 一方のは、その意図をはかりかねている。 こういう時、リューグは自分の性格を忌まわしく思う。言葉にすること、伝えることに慣れていないしその必要をあまり感じないのだ。双子の兄は、そういう部分に長けていた。 庇っているわけではない。無理をしているわけではない。お前が怖いわけではないし、恐れているわけでもない。怒ってもいないし、責めてもいない。なんてことない。なんてことないのだ。 それをどう言っていいのか、彼は知らない。 そもそも彼は黙ってはいるが、アメルはきっと知っているのだ。彼女は人の、心に触れる。そうして怪我や病気を治すから、きっとリューグに触れたとき、暴走してまさしく鬼になったを見たろう。 それでもアメルも気にしていない。気にしないでおくことにしている。リューグの考えていること、思っていることが、少しだけでも見えるから。だからが仲間になってくれるならうれしいと笑う。 そもそも、鬼だけど私は私、そう言ったのはどこのどいつだ。 考えていたらなんとなく腹が立った。 首に添えられたままの手を掴んで、ちょっと強めに握ってやる。いて、との小さな呻き声。ぎゅっぎゅと握って、離して、それからまた握る。 小せえ手、してやがる。 「…もう痛くねえ。」 たっぷりとした沈黙の後で、だからリューグはそれだけ言った。 はちょっと笑って、それから泣くようにした。 |