08.彼方よりの声

I hate myself.



「ありえねぇ…。」
「さすがは鬼神というところか。」
 なんとなくがっくりと呆れて肩を落とすリューグの横で、しきりにアグラバインが感心している。つい先日、命を落とすような大怪我を負ったというのに、当のは元気に屈伸などをしていた。
「まだ三日しか経ってねぇだろ!」

「三日も経ったよ、リューグ。」

 不思議そうにが首を傾げる。
 その間も右肩を回したりぎこちなく手を結んで開いてと繰り返している。
「まだ本調子じゃないけどなんとか動く。」
 リューグに向かってぐー、ちょき、ぱー。呆れて物も言えない様子のリューグを余所に、「見事に腱まで切れておったのにな。」ハッハッハとアグラバインが笑い、ありえねぇとリューグが唸る。 
「どんな身体してんだテメエは―――!」
「ふふふ、頑丈でしょう。」
「うむ、確かに頑丈だな。」
「なごむな!」
 先ほどからなんとなく、リューグがすっかりツッコミ役になってしまっている。それも仕方のないことかもしれない。なにせ昨日の晩まで、はずっと高い熱を出していたのだ。
 それが今朝になって、看病したままうたたねしたリューグがふと眼を覚ますと、肩に毛布。の姿がない。慌てて外にでれば、元気に屈伸するとそれにひたすら感心する養い親である。ちょっとかわいそうなくらい彼が慌てたというのにそれじゃあ、少しばかり彼のテンションが壊れるのも仕方ない。
「もう二、三日もすればすっかり大丈夫になるよ。」
「…それなら二、三日寝てろ!」
 屈伸に続けて体操を始めようとしたを、リューグがぐいとひっぱる。そのままが目を丸くするのも構わずにそのままぐいぐいと部屋に押し込めてしまった。
 その様子を見ながらアグラバインが目を丸くする。
 いつも少しばかりぶっきらぼうで口数の少ない養い子が、ここまでぽんぽんと喋るのを久しぶりに見たのだ。
「アグラおじいさ〜ん!」
 止めて、と言わんばかりにこちらをが見てくるが、「休んだほうが懸命だろうて。」と彼が言うと諦めたようにそのまま家の中へ入っていった。その間もリューグがなにか文句らしいことを言っているのが聞こえる。
 だいたいお前は、最初からわけがわからない、もうとにかくわからない、怪我人は寝てろ、動くな、動かすな、動いたらぶったぎる、わかったかわからないのかわかったか、云々。

 珍しいこともあるものだ。
 アグラバインははてと少しばかりおもしろそうに首を捻る。村が滅ぼされて以来、こんな風ににぎやかだったことがあるだろうか。―――あるはずがない、あってはならない。
 どこかで誰かがそう囁く。
 見てみろ、お前の立つ大地を。
 黒く、焼け焦げて、未だ熱のくすぶる大地だ。この世の地獄だ。女も子供もみな死んだ。切り殺されて、煙に巻かれ、炎に焼かれて、死んでいった。苦しい苦しい、痛い、痛い、痛い。聞こえぬか、今もまだ呻いている。まだ弔いの済まぬ躯を、並べたのを忘れたか。そうしてその原因を、作ったのは誰だ。この不幸の連鎖の始まりを、紡いだのは誰だ。
 アグラバインの広くたくましい肩がこわばる。
 そうしてその真実を知ったとき、お前の養い子らは、かわいいかわいい孫娘は、いったいどんな顔で、お前を見ると思う?
 その顔が徐々に強張ってゆく、石化していく―――。

 ぎゃあぎゃあとひときわ煩い声がして、しかしが、戸を蹴破るように飛び出してきた。リューグの「なにすんだ馬鹿力!」という怒声が聞こえてくる。
「おじいさん!」
 石化しかけたまま、目を丸くしたアグラバインに、が駆けよる。
 なにか迷うように、その口が何度か開閉され、しかしその目がまっすぐまっすぐに彼を見上げる。透き通るような眼差しだ。どこかかなしい、鬼の目だ。その菫の虹彩に、意識が吸い取られる―――。

「寝てろ馬鹿!」

 ぐえ、と蛙のような悲鳴をあげて、がリューグに襟首をひっつかまれた。
 はっとアグラバインが気がつくと、もう声は聞こえず、彼の周りを渦巻いていた暗い影も感じられない。「怪我人に対して乱暴だ!」抗議するに反論しながら、リューグがそのまま彼女を引きずっていく。
 扉が閉まる直前に、アグラバインは鬼の少女を見た。
 今、ワシに、なにをした?
 なにも感じられない。周囲を取り巻く暗い影。不安、悲しみ、わだかまる憎悪。鬼の目が老人を見る。そうして音もなく、その口が開く。
『とらわれてはならない。』
 扉が騒々しく、閉まる。