年若い兵士は見なれない光景に思わず足を止めた。 デグレアの春は短い。珍しく穏やかに晴れ上がった、静かな午後だ。どこかで鳥が鳴いている。少しまだ涼しい風が抜けて通る、あまり人通りのない、城内の裏庭。一本の樹の下に、真黒な装甲の機械兵士と、それから白い服の女が、幹に背中を預けて並んで横たわっている。華奢な風体の女性と並べると、小さな山のように見える機械兵士に、彼は見覚えがあった。つい最近、彼が配属されることになった部隊に所属する、機械兵士だ。 女性の方には、見覚えがない。 そもそも軍人だらけのこの城に、似つかわしくないと思った。簡素な白いドレスは、美しいものであろうに、ところどころ、黒く汚れている。白い頬にも指先にも、同じような汚れが付着している。…なぜだろうか。首を傾げるも、よくわからない。 手のひらを草の上に投げ出し、幹と機械兵士に寄りかかるようにして、その人は眠っている。すやすやとあどけない、少女のような寝顔。長い黒髪が、風にそよぐ。少し開いたドレスの胸元が、なんとなく無防備で落ち着かない。細いからだつき。銀の靴には透明な石がいくつか輝いていて、花のような、どこか儚げな風情だった。 やっぱり軍人だらけのこの城には、とそこまで考えて彼はますます首を傾げる。 貴族の娘だろうか?ならばなぜ、こんなところで機械兵士と並んで眠っているのだろう。下働きの娘、という雰囲気ではない。この旧王国に、王族はいないはずであるし。 ちょうどその樹の下にはぽかぽかと陽が当たって、なんだか平和な光景だった。 白い花がひらひらと、樹上から降ってくる。 それが屈強な機械兵士とおんなのひとの上にちらほら積もっていて、なんだか本当に、優しい景色。 彼は思わず、ぎざぎざと荒んでいる心の瘡蓋がやわらかく解けるような気分になって、いけない、と首を振る。こんな敵地の真ん中で気を抜いてはならない。 彼が首を振ると、その見事な金の髪が日向の日光を受けてきらきらと輝くのだが、もちろんそれは彼の意図するところではなかった。 「イオスか?」 ふいによく通る低い声が飛んできて、彼はビクリと肩を震わせた。 先ほどまでこの光景に、和らぎかけていた真紅の双眸が、鋭く細められる。 「このようなところでどうした。」 「…―――いえ、」 その戦場であっても喧騒を貫くようによく通る声をたがえるはずがない。新しく彼の上官になったルヴァイドだ。その声。轟くように、染み透るように、叩きつけるように。かつて、つい先日まで、その声は彼を恐怖させた。 土砂降りの雨の戦場で、その声は大きく響いていた。 彼にとっては負け戦で、ルヴァイドにとっては勝ち戦だった。 槍も剣も折れ、矢も尽きた。 帝国随一と誉れ高い、親衛隊が、なんたる無様。大隊は撤退した。その足止めに、彼らはポオンと、負けるしかない戦の最前線に、放り出されたのだ。負けたことに絶望すればいいのか、このような布陣を敷いた上司にもっと早く絶望すればよかったのか、よくわからない。なんとなく呆れてわらえるような気もしたし、意地でもこのままここで討ち死にしてやろうというような気もしていた。 気づけば彼しか立っていなかった。 辺りに血の海がある。 仲間だったものの、敵だったものの、肉と骨の塊。 もうほとんど、彼は息をしていなかった。極度の興奮状態にあった肉体は、ピークに達しようとしていた。瞳孔は見開き、肩で息をしているにも関わらず肺にまで空気が届かない。「…けだものだ、」 と誰かが呟くのが聞こえたような気もし、しかし彼の聴覚は極限まで高められていてもはや何も聴こえないに等しい。 ただ向かってくるものに、折れた槍を我武者羅に突き出し、噛みつき、圧し折り。兜も失い、体に矢を生やし、金の髪を血と泥に塗れさせて歯をむき出したまま。けだものと称されてなんら遜色ない姿を彼はしていた。 大きな黒い影が、近づいてくる。 それは圧倒的に大きく、彼は恐怖する。しかしその恐怖を、彼の中に渦巻く凶暴な感情の渦が押し込めた。一歩前へ出る、槍を突き出す。避けることもいなすこともなく、それは彼の渾身の一撃を手のひらで受けた。ぐっと強い力で、槍の穂先が握りこまれる。引けども押せどもびくともしない。彼は喚く。思いつく限りの罵り言葉で喚く。それはほとんど狂った犬の音声と同様に、なんと言っているか聞きとれたものではなかった。その言葉に対しても、何の反応もない。彼は槍を捨て、殴りかかろうと思い、その黒い影を見上げる。 目。 影の中に深い赤紫の瞳がある。 これは影ではない、これは人だ。 ヒュッと彼の咽喉が空気をはじめて肺まで吸い込む。筋肉が痙攣する。彼は咳激しくき込む。それでも立って、その目を睨みつけている―――。 「もう良い。」 深く低い声。敵の総大将として、彼らを恐怖させたその声。 「もう良いのだ。」 彼の手から力が抜ける。足がなくなったような心地。ああなんだその目は。倒れこみながら彼は悪態をつく。その眼で見るな、そんな声であわれむのはやめろ、子供とて侮るな、軍人なら戦え、戦え、戦え―――― そうだ、頼むから「このままころせ。」 彼の記憶はそこでいったん途切れる。 「お前の獅子奮迅の働きに、俺は失うはずのない部下を七人は失った。」 目覚めた彼にその声と眼差しで、ルヴァイドはそう言った。反射的にたった七人かとも彼は思い、ざまあ見ろとも思い、あと三人くらいこいつが出てこなければ殺せたと思った。 「帝国軍はお前の身柄については関知しないそうだ。」 それはそうだ、と彼は思わず咽喉の奥で笑った。あの負け戦の中、あの場に投入された時点でそういうことだ。律儀に勧告したのか―――と目の前の男を眺める。むしろ帝国側も驚いているだろう。親衛隊所属、軍属の中ではエリートの部類に入る―――とはいえ身分も地位もない若い兵ひとりの身柄を、わざわざ知らせてくる大将もそうはいまい。彼の家は代々の軍人の家系であるし、彼は次男坊である。軍人ならばその場で潔く死ねと、父も母も言うだろう。死なずに虜囚となったことが実家に知れていたら、今頃ふがいないと腹を立てられているかもしれない。 そもそもあの場で、そのような残兵を捨て置かないものがまずそうはいまい。 なんのつもりだろうと、彼は憎しみの籠った眼差しで、その希少な、目の前の男を見上げる。暗く青みがかった紅いの髪。逞しい立派な体躯。 「なんのつもりだ!殺すのであればさっさと殺せ!」 吠えた彼に男は笑った。お前の名は、とそう言った。 「七人分だ―――励め。」 捕虜である彼は殺されず、その男の部隊に入った。 崖城都市デグレア所属、特務騎士団第一部隊・黒の旅団団長。若さのためか将軍という称号こそないが、デグレア総大将傘下の部隊である。彼は目の前の男が、黒騎士として知られた旧王国でおそらくもっとも強いと言われる男だと知る。 それからポンと部隊に放り込まれて、それっきりだ。元々敵兵だったことは知れ渡っている。友好的に迎えるものがあればその正気を疑うところだ。彼はもちろん厳しく冷たい視線にさらされ、自分でもなぜ舌を噛み切ってしなないのかと他人事のように不思議に思いながら、それでも鍛錬と任務に励んでいた。 はげめ、と少し眉を下げて困ったようにわらった男が、いきろ、と言った気がしたのだ。 しかしまだ彼は、自らの心を決め切れていない。宙ぶらりんの状態だった。もちろんそれが周囲にも伝わるから、誰もがまだ彼を疑いと警戒の眼差しで見ている。 感情というものがないとされる機械兵士と、それからこの奇妙な上司の他は、彼に話しかけるものはない。 「何を見ていたのだ?」 「…ゼルフィルドが、」 しぶしぶと目で指し示した先を振り返って、ルヴァイドが笑った気配がした。 めずらしい。 イオスは少し顔を上げる。ここ数週間で学んだが、ルヴァイドという男はめったに表情を変えない。 「か。」 やはりルヴァイドは少し笑ったようだ。来い、と目だけで促されて、やはりしぶしぶ、イオスはそれに従う。まだこの男の下で働くと、決めたわけではない―――。帝国時代の上司と比べて、優秀かつ魅力的な上官だということは、わずかな時間で理解できてはいても、だ。これは敵 (だった男) だ。敵だと呪文のように何度も繰り返す。そうしなければ、自分が内側からばらばらに崩れる気がしたのだ。 「ゼルフィルド、」 ルヴァイドの声に、シュウ、と蒸気を立てて、ゼルフィルドが若干体を浮かせる。今まで光の点っていなかった、人で言うところの目のあたりに、青白い光が生ずる。 「将、」 「ジュウデンの具合はどうだ。」 「良好デス―――現在87%マデ終了シテイマス……?」 スミマセン、将ヨ。 人間なら肩を竦めていたかもしれない、そんな調子の機械兵士の言葉にイオスは内心目を見張った。 「めんてなんすガ難航シテイタトコロヲ、トオリカカッタガテツダッテクレタノデスガ―――私ガ充電ノタメニ電力ヲオトスマデハ、コウデハナカッタ。」 とっくに帰ったと思ったのに、とやはり妙に人間くさい調子で機械が呟く。それでか、とその言葉を聞きながら、ルヴァイドがおんなの頬に付いた機械油を拭うのを、なんとなくイオスは見ていた。 「汚レルカラ、ヨセト言ッタノデス。」 「聞かないだろう。」 「ハイ―――シカシアイカワラズ、手際ガイイ。」 これからお前のめんてなんすとやらはに頼もうか、そうもう一度微かに笑って、ルヴァイドはと先ほどから呼ばれている女の肩をそおっと揺さぶる。 「おい。起きろ、。」 それがなんとなく、なぜだろうか、イオスは、そういった動作をするほど親しい男女にしてはただ優しく、幼い子供同士のやりとりを見ているような気分になって、なんとなく恥ずかしくなる。まだよっぽど色気のある仕草をされた方がよかった。女の方は、微かに眉を寄せただけで、起きる気配がない。どころか機械兵士の腕に、ぎゅっとしがみついて顔を隠してしまった。それに今度こそ、ルヴァイドが声を立てて笑う。 「起きぬな。」 「…ヨク寝テイマス。」 ひとつ溜息を吐いて、ルヴァイドは己の肩からマントを外すと、女の肩にそれを被せた。その時ちゃんと、胸元も隠すように覆っていて、よくわからない。イオスは眉をしかめる。 「ジュウデンが完了してもこのままだったら起こしてやってくれ。」 「…了解シマシタ。デハ、我ガ将、イオス、失礼スル。」 再びブシュウと音を立てて、ゼルフィルドの装甲が沈む。その青白い光が消える。眠ったのだと、ごく自然に思った自分に、彼は少し驚く。今日は驚いたり不思議がったりしてばかりだ。 行くぞイオス、とさっさと歩き始めた新しい上司の後を追いながら、彼はもう一度首を傾げた。 「どうした。」 後ろに目でもがあるのか、ルヴァイドがかすかに笑いながら尋ねる。 「…誰、です?」 彼のルヴァイドに対する敬語も態度もぎこちないのは仕方のないこと。それに目くじらを立てる部下たちを、この上司は 「まあよい。」 の一言と苦笑で済ませてしまっている。 「ああ、彼女はだ。顧問召喚師殿の養い子だ。」 「…あの男の…、」 彼はあからさまに眉を顰める。まだここへきて数週間でも、あのレイムという男の不愉快さは群を抜くものがある。その表情が見えたのか、やはりルヴァイドは前を向いたままわらった。やはりこの男、後ろにも目があるのだろうか。このまま後ろから槍でひとつき、などという甘い考えが通用しないことはとっくの昔に把握しているが、やはり悔しい。 「親子とは言え似ても似つかぬが。」 ルヴァイドが少しわらう。やっぱり今日はよくわからない日だと再び眉を顰め、彼は一度だけちらりと振り返る。黒いマントにくるまれて、まだその人は眠っていた。伏せたままだった目蓋の下の瞳は何色なのだろうと、彼はふと思った。 |