眠る養い子の顔を、無表情でそれは見下ろしている。
 さらさらとした黒髪を、少し撫でると指に心地良い。かつて幼い少女だったその娘は、もう二十歳を数える。人間の季節<とき>はいつの世も早いと、それはなんとなく思う。
 伏せた瞼はふっくらとして、その下の眼球の形がわかる。きれいなまるいかたち。その喉にほんの指先だけで触れて、それは手を離す。
 はもう以前のように、レイムのために絶望しない。
 少女の悲しみと嘆き、絶望は、ずいぶんまだこの体に定着しようと苦労したそれの力となって助けた。今までに呑んだことのないような、透き通った水に似た、甘い悲哀であったと思う。声を奪われた喉で、レイムと今はもういない男を呼びながら、が絶望する様を観るのが、それは堪らなく好きだったのだ。
 なのにここ数年、彼女はもはや望みを失うことを止めたようだった。
 時折彼女は、レイムを悲しみ、嘆く。しかしそれは以前と違い、長く持続しない。
 それは渇いていた。餓えてもいた。部下を"取り戻す"のに苦労もしたし、から負の感情の供給がなくなったにも等しかったからだ。これからもずっと、少女は大人になってもレイムのために絶望してくれると信じていた。

 ああ喉が渇く。
 それは自らの喉元に白い手をやる。
 復活させる労力を使った分、二人の部下には楽をさせてもらっている。あと一人、忠実な僕三人が揃えば、それはずいぶん楽ができるだろう。キュラーとビーニャの集めてくる、召喚師たちの最後の恐怖とその血識。それは一時、彼の喉を潤したが、一過性のものでしかなかった。
 飲んでも飲んでも、喉が渇く。
 乾いた喉を押さえて、それは沈黙している。
 まだそれの周囲をの悲しみが満たしていたその頃、それは潤っていた。満ち足りていた。
 ―――レイム、どこへいったの、どうしてしまったの、なぜ、かわったの、レイム、かなしい、かなしい、つらい、レイム、もとにもどって。
 記憶の底で少女が泣いている。
 あの甘露が欲しい。
 無意識に喉がなる。
 この娘の白い喉に噛みついてその血を呑めば、この渇きは癒されるだろうか?しかし一時それで満たされても、また渇いたときこの娘が死んでしまっていては意味がない。
 永遠にお前はレイムのために絶望してくれると信じていた。
 撫でても撫でても、それだけで渇きが満たされるわけもない。
 渇いて渇いて仕方がなかった。人間の感情になど頼らずに済むように、早く力を取り戻したい。しかしそれには、まだ時がかかる―――。まだこの国の人間の、ようやく3分の1ほどを傀儡にできたに過ぎず、それ自身の行使できる力と言ったら、本来の二分の一にも満たない。
 忌々しいような、憎たらしいような、縋るような気持ちで、眠る娘を見る。
 なぜ私のために絶望してくれない。
 なぜ私のために悲しんでくれない。
 喉が渇いた。私は喉が渇いて渇いて仕方がないのに。

 娘がふいに寝返りをうつ。白い首筋。なぜだろうか、そこから血が流れると思うとぞっとしない。愉悦もない。
 渇いている。
 いつだったかその腕に痛ましく残された赤黒い手の痕は、きれいに消えている。しかしその白い肌に、一度そのように不本意な痕が在ったことを、それが忘れることはない。
 何かが忌々しい。
 と無意味にそれは一度娘の名を呼んだ。なぜ呼んだかなどそれにも預かり知らぬところだった。
 なぜ私のために絶望してくれない、と純粋にそれは不思議がっている。
 なぜ私だけを見ることをやめた。私はこんなにも優しく、レイムそっくりにお前を扱っているというのに。レイム。お前のすべてだった男。識っている、レイムだけが見知らぬリィンバウムにたったひとり放り込まれた幼い少女の世界のすべてだったこと。

「…。」

 頼むから私のために絶望してくれ。
 自らの喉を押さえたまま、それが目を伏せる。他の存在、デグレアだとかルヴァイドだとか他の兵たちだとか、そういったもののためにの悲しみが垂れ流されるのが不愉快だ。自分のために流される悲しみを呑むほど素晴らしいことはない。
 自ら奪っておきながら、それは夢想する。娘の喉がもし音を出すなら、悲鳴だとか怒声だとか哀哭よりも先に、レイムという悲痛な叫びで呼んで欲しいとそう思った。




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