その人が話せたなら、きっと 「イオス!」 と嬉しそうに名前を呼んでくれたに違いない。 中庭にが座っているのを見、イオスは最初しまったと思った。そう思った時にはすでに遅く、がぱっと顔を明るくして駆け寄ってくるところだった。 今の姿をあまり見られたくない。 今日は他の部隊との合同演習だった。つまり、彼は、どこからどうみてもボロボロだった。 イオスがデグレア軍に入ってもうじき1年になる。16と言えば帝国で言う成人だが、デグレアではまだあと2年待たねばならない。まさかこの国でその年を迎えるとは思わなかった。 少しずつ少しずつ、小さな出来事を積み重ねて、彼は黒の旅団の中に居場所を作っている。それと同時に、素直に新しい指揮官に尊敬と感嘆の念を寄せられるようになった。 何故助けたのだという問いに、最初 「七人分だ。」 としか苦笑しなかった指揮官は、しつこいぐらい毎日毎日ねちねちと尋ね続けた彼についに言った。 「獣のようになって我武者羅に闘うお前は死にたくないと言っているように見えた。」 憐れみか?同情か?そんなものかけるだけ残酷だ。そんなことは戦場に生きる者なら誰だって知っている。 「…素直に強いと思った。言うならお前の生きようとする底力に俺は負けたのだ。」 だから生きよとその男は言った。 それからイオスは少しずつ自然に敬語を使うようになり、少しずつ兵たちと打ち解け始め、食事の量が増えた。馬鹿にしてやがると思わないでもなかった。しかしそのルヴァイドという男が本気でそう思っているのだとなんとなく感じるようになってから、彼は自分があの時帝国兵の誇りだとか意地だとかよりなにより、死にたくなかったのだと認めた。確かにイオスは、あの時生きたかった。部下を足止めにさっさと退却した上司なんかのために、絶対死んでやりたくなんてなかった。 最近イオスは、いろいろなところからルヴァイドの話を聞かされる。同じ騎士団の兵たちからは主にあの人はすごいあの人は偉いあの人はすごい。一生ついていける!など。 「あの人は人の痛みを分かってやれる数少ない上官だよ。」 昔はこの国にも、もっとそんな素晴らしい上官がいたが。 年長の騎士のひとりごと。 「あの人は人の痛みを知っている。あの若さで苦労したんだ…父上の咎でほとんど迫害まがいの扱いを受けた。それでも心根も腐らせず、負けずに、腕と己を磨いてここまで出世された…大したものさ。」 そういう情報が増える度、最初イオスは困ると思った。恨めなくなりそうで困る。 最近では、よく、わからない。 困ってはいない、と思う。 「…、」 駆け寄ってきたが、ボロボロな様子のイオスに目を丸くすると眉を潜めた。それから気遣わしげに覗き込んでくる。帝国出身ということも黒の旅団所属ということも相まってイオスへの風当たりが相当きついを通り越してハリケーンなのは、彼女の耳にも届いていたのである。 イオスは最近急に背が伸びたので、の身長を追い抜かす勢いだ。 『…大丈夫?』 本当は手に書きたいくらい心配しているのだろうが、は紙とペンをいつも下げている袋から取り出して書いた。手に書くとイオスが照れるからだ。 彼はたいそう見目麗しい少年であったので、デグレアに来る前も後も、女性に声をかけられないことはなかったし、免疫がないわけではないのだが、そもそも性格が生真面目なのと、やはり相手のせいだ、と彼自身思う。 「…平気だ。」 そっぽを向いての案の定のその言葉に、が首を横に振って、それからもう一度、袋に手を入れる。細い指先が取り出したのは紫の宝石。2年ほど前から、は、黒の旅団にも数名いる、召喚師たちに乞うて教えを受けているらしい。養い親とその部下たちに習えばいいとは誰も言わなかったというのも、彼らの人となりをなんとなく把握した今では当然のことと頷ける。 彼女がそおっと祈るように手のひらに包むと、風もないのにの髪が揺れて、周囲にやわらかい光が満ちた。 それが治まると共に、チョイチョイチョチョチョチョイ、という可愛らしい音とともに、大きな耳に頭に光の輪っかを乗せた、紫色の小さな生き物が現れる。黒くつぶらな瞳でのことを見、それからボロボロのイオスを見、それは小さな前足を左右に振った。光の粒がイオスを包んで、大小様々の傷口や青あざがひいてゆく。 やがてすっかり痛みが和らぐと、小さな生き物はイオスに興味を失ったようにそっぽを向いて、にじゃれつき始めた。 「…別によかったのに。」 それでもその後できちんと小さくありがとうというイオスに、が首を振る。 『昔ね、ルヴァイドもよく、そうやって戦でもないのに怪我、してたの。』 綴られる文字に、聞いたばかりの昔語りが蘇った。 『その頃はまだ、私、召喚術なんて使えなかったし、色々あって直接手当てもしてあげられなくて、悔しくって。』 どこか遠い昔に目を凝らすように、の横顔が水色に透き通る。 「…僕はルヴァイド様じゃないぞ。」 それにきょとりと目を開いてから、が破顔した。 『知ってるよ。』 その微笑みや笑顔は、弟にするような気持ちなのかもしれない。五つしか違わないくせにと、彼は内心ぶつぶつと呟きながら、しかし話題を変えることにする。 「…そんなに召喚獣が人に懐くの、初めて見た。」 『最初は全然。』 会話の間もずっとすり寄られて笑いながら、が言葉を綴った。その召喚獣がちっとも落ち着いて書かせてくれないので、あっちこっちに文字が飛び跳ねる。 『最初呼び出した時、あんまりかわいくて、でもすぐ還ってしまって、かなしかった。次呼び出した時、お菓子をあげて、それから毎回あげながら、少しずつ。』 これが世に言う餌付けである。 餌なしでももうすっかりを気に入っているらしい小さな召喚獣と、声はなくともきゃっきゃとじゃれている。傷も治って中庭に隣り合って座りながら、イオスはあんまりその様子が少女のように可愛らしいので、なんだかぽけーっとしてしまう。 いい天気だ。空は青いし、風は心地よいし、怪我も治って少し眠たい。遠くで剣を打ちあう音がする。 あんまりのどかで、いけないな。 イオスは少し、目を瞑る。 この場所が好きになりそうで。 |