デグレアが、ない?
 耳に入ってきた言葉の意味がわからずに、彼女はただ顔を蒼褪めさせていた。今は亡きデグレア、あなたの爪が貫いた将軍。
 ぐるぐると単語が渦を巻いて頭の中を回る。
 彼がレディウス将軍の死に関わっていることはもはやその当時から確信めいて直感していた。だがしかし、今は亡きデグレア?屍人の軍隊?美味だった?いつまで生かす―――彼らは、何を、言っている?
 冷たい汗が背中を伝う。
 はやく、ここから、はなれなくては。
 膝が震えてうまくあるくことができない。
 一刻も早くここから離れて。どうすればいい?どこへ行けば?
 ルヴァイド。
 話題の中心になっていた男の顔が浮かぶ。彼に知らせなくては。彼らは、まだ、生きている。早く知らせて―――それから―――。思考だけが目まぐるしく動き、しかし足をちっとも動かせずにいたの耳が、小さな音を捉える。
 絶望のドアを開けるように、その扉が開いた。
「おや、さん。」
 男が銀の髪をさらりと風になびかせながら、にっこりと男が笑う。
 もう季節が20近く巡ると言うのに、出会ったころから、ほとんど変わらないその姿。

「盗み聞きとは趣味が良くない。」

 おやどうしましたか、と部屋の中から声が聞こえる。
 この部屋に入りたくない、ここから今すぐに逃げ出したい―――。しかし足が動かない。うっとりするような笑みを浮かべて、レイムが微笑む。
「ああ、様ではありませんか。」
「えっ!なァにィ?ちゃんってば盗み聞きィ?いっけないんだア!」
 キャハハハハ、と少女の嗤う甲高い声。
 部屋の温度が、うっすらと下がっている。なにか、なにかが変だ。禍禍しいような、息苦しい気配が部屋に満ちている。どうしてこの人たちは、こんな部屋の中で普通に談笑できるのだ?
「おやおや、最近誰かがちょろちょろと辺りを嗅ぎまわっているのは知っていましたがまさか、様とは。」
「さあ、お入りなさい。お茶でも淹れましょう。」
 この人は、この人たちは―――。
 声だけ聞けば、穏やかで、表情だけ見れば、和やかな。しかしその目を見ればわかる。その目の底のない暗さ。その笑い声の冷たさ。その眼差しの、なんと禍禍しいことか。入口で硬直したまま、動かないにレイムが微笑みかける。
「聞いたのでしょう?さあ、すべて話してさしあげますよ。」
 だからお入りなさいと微笑む。
「大丈夫、あなたは私の大切な養い子なのですから、酷いことはしませんよ。…ねえ、キュラー。」
「ええもちろんです。」
「レイム様がそう言うならァ〜。」
 この咽喉が機能しても、きっとは声すらも出せなかったろう。
 あなたたちはなんなの?
 その瞳に、レイムが微笑みかける。こんな時なのになぜか、その微笑が一等、変わってしまう前のものに近い気がして、は目を見張る。心配しなくてもいい、なにもおそれることなどないのですよ、とそう言って微笑みかける、かつてのレイムに。

「聞かれてしまっては仕方がありませんが、ちょうど良い機会です。」

 私はもうずいぶん前から、あなたがルヴァイドや兵たちと交わるのが気に食わなかった―――その笑顔で、それを言うのか。背中に優雅な腕を回され、部屋の中に通されながらの表情が泣き出しそうに歪む。それにおや、とキュラーが目を細め、ビーニャがふうんと鼻を鳴らした。
「これは確かに、なんとも甘美な。」
「…こればかりはあなたたちにでも一滴もあげませんよ。」
 あなたはだれ、声もなく戦慄いたの口端に口をつけて、レイムがわらう。その背後でビーニャがなにやら悲鳴を上げ、キュラーの宥める声がした。
「レイムですよ。あなたの。」
 手のひらを振り上げようとしたの細い腕を軽々とレイムが掴む。
「二度も同じ手は食いません。」
 結構痛かったんですから、と笑う姿こそ優しいのに、やはりそこからはなにも滲まない。
 先ほどの微笑はそうあってほしいと言う願望が見せた夢であったのか―――部屋を見渡してもなにもない。逃げ場などどこにもない。キュラーが、ビーニャが、嗤っている。しかしその笑みなど、視界に入らない。手を握ったままのレイムが、恍惚として囁く。ずいぶん自由にさせてきましたが、それももうおしまいです。
 どこかで誰かの悲鳴が聞こえる。
 耳を塞ぎたいのにの手はレイムに捕まえられていて、動かすことができない。
 ここから逃げたい、今すぐに。
 それが不可能であることを本能も理性も理解している。ただ警鐘だけがガンガンと、耳の奥で鳴っていた。にげろ、にげろ。今すぐここから。ことはお前の想像していた最悪のものよりもずっと―――。

「つかまえた。」

 その紅い口が、三日月のように嗤う。
 噫この世界の月は欠けないのに―――薄れゆく意識の中ではそれだけ思う。
 ルヴァイド。
 呼んだ名に音はない。




   。