ルヴァイドは憤然と長い廊下を早足に歩いていた。戦に赴く前のようなピリピリとした刺々しさが、全身から滲みだしている。すれ違う文官が、何事かしらと眉を潜め、しかしその様子に声をかけることすらもできない。ズンズンと進みながら、彼は今しがた聞いたばかりの痛ましい景色のことを思っていた。それだけでまた眉間のしわが深くなる。
 何もかもが、いつも自らの預かり知らぬところで動く、と彼は旧い昔にまで遡って思考していた。
 いつも自分のたいせつなものがいなくなるのは、彼の見えないところでだった。そのことが彼には、許されがたいことのように思えた。


「…が?」
 半ば茫然と繰り返された言葉に、ざわざわとざわめきが広がってゆく。
 彼女が修練場に姿を見せなくなってもう半月が経とうとしていた。養い親の顧問召喚師曰く、性質の悪い流行り病にかかったので外出させないようにしている、命に別条はない―――という話だったが。
「それは本当か。」
 ルヴァイドの低い声音に、兵がゆっくりと頷く。
「女中が北塔に食事を運んでいるのは知っていました―――猫でも隠れて飼ってるのかと、思ってたんですが。」
 少し蒼褪めた頬で、兵が顔を歪める。
 その女中のことをちょっと、かわいいないい子だなお近づきになりたいな、とうきうきるんるん思っていた彼は、こっそりと北塔にいるであろう猫を探して歩いた。そうして使われなくなって久しい塔のてっぺん、その天井裏に、彼は猫ではないものを見つけた。そこにいるはずのない人だ。そのような扱いを受けるはずの、ない人だ。
 薄暗い天井裏に、並んだ鉄の格子のその向こう。銀の鎖。
 見てはいけないものだったらしい。中にいたお目当ての女中が人を呼ぼうと叫んだためにあわてて塔を駆け下りた彼にはチラとしか見えなかったが間違いない。
 だ。


「レイム!!」
 断りの言葉もなく開け放たれたドアの向こうで、銀の髪をした男がおやと目を丸くする。
「どうしたんです、ルヴァイド。そのように怖い顔をして。」
「貴様、いったいどういうつもりだ。」
「なんのことです?」
 声低く発されたルヴァイドの言葉に、きょとりとレイムが首を傾げる。

「…をどうした。」

 ほとんど確信を含んだその言葉に、レイムがひそりと眉を潜めた。
「この間も申し上げたと思うのですが―――?」
「北塔で見たという者がいる。」
 間髪をいれずに返された声に、レイムは今度こそしっかりと表情を歪めた。ただしどこか、悲しむような、苦しむような、悲痛に見える表情だった。
「…見られた、というのはやはりあなたの部隊の兵でしたか。」
 肩を落とす様子がいかにも悲しげで、ルヴァイドは怪訝に眉をひそめる。
がはぐれ召喚獣だということ、あなたは知っていますね?」
 その言葉に彼は少しはっと顔を上げる。
 そう、ははぐれ召喚獣だ。ほとんどリィンバウムの人間と変わらない姿形をしているので知らぬ者の方が圧倒的に多いだろう。しかし彼女は確かに幼い頃、この世界に召喚されてきた異界の者なのだ。しかし何故今そのことをレイムが話題にしたのか分からず、ルヴァイドはますますうっそりと眉をしかめた。レイムは構わず、悲劇の主人公のように言葉を重ねる。
「そのことがどこかから元老院議員の耳に入ったのです…"はぐれ" は危険視される存在…おまけに得体のしれぬ名もなき世界からの召喚獣を城内で野放しにするなど言語道断だ、と。決してさんはそのようなものではないと言ったのですが、聞いていただけず…危うく処断さえされそうになったところを、必死に私から命乞いのお願いをして、あのような措置になったのです。」
 私とて、元老院議員の決定にはこのデグレアに身を置く以上逆らえませんからね、と悲しそうにレイムがうなだれる。
 そう、この国において議員の決定は絶対だ。
 誰も逃れることはできない。できないのだと目の前の男ですらうなだれる。
 どうにもならないことなのだと瞬時にルヴァイドは悟った―――彼はこの国で生れ、育った。そのことに疑問を抱くことがないわけではなく、しかしそれでも、よく理解していた。この国でその機関に逆らうことは、我と我が身だけでなく、周囲の人間までみな巻き込んで破滅へ至ることであると。が命を拾ったことを、幸運だとすら思った。同時にレイムですら、抗えぬのかと悪い夢を見ているような気にすら陥る。
「…なぜ流行り病だと?」
「この城にはさんがはぐれ召喚獣だと知らぬ者のほうが多い…いつかあの子が許されて戻ってきたときに、親しかった者たちが "はぐれ" だからと見る目を変えていたら、きっと悲しむでしょう?」
 それは確かに養い子を慮る養い親の言葉のようにも聴こえた。
 だからその娘を連れてこの国を出るというもっとも我が子を思いやる選択をレイムが取らなかったことにまで、ルヴァイドが気がつくことはなかった。ただ握りしめた拳が、レイムよりもずっと、様々な感情を堪えるように白く震えていた。



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