「ねえさん、あなたは怒っていますか?」 問いかける声に返事はない。当たり前だ、問うた娘から声を奪ったのはそれ自身。急に尋ねられた声にびくりと肩を震わせた娘を、それはいとおしげに眺める。 今までとは違った感情。恐怖、畏怖、嫌悪、怒り―――それもまたすべてこの娘から発されるのであれば心地よい。 きっと最後には、レイムのためにもう一度絶望してくれると、彼は恍惚とした思いで信じているのだ。 この娘は随分強くなった。魂の練度。天使たちならそう言うだろう、それが格段に、上がっている。その輝き。それが真っ青な血を流しながら自らの手のひらに落ちてくるその時を待ち望んでいる。なぜならその瞬間ほど、その魂が自分の物になったと実感する時が他にないからだ。うつくしい魂。天使たちとは違う目で、しかし同じように、それをあいしている。 微笑んで首を傾げると、銀の髪が、だらりとそれの眼前に垂れる。 これの本来の持ち主も美しかった。 「、」 呼ばれた声にが首を振る。 そっと頬に手を伸ばすと、体ごと大きく強張らせて、身を捩ってそれから逃れようとする。狭い狭い檻の中だ。逃げる場所も、術もない。声を封じられては助けを呼ぶことも敵わず、そもそもこの城に生者は存在しないにひとしい。ここは高い石の塔の上、ほんのわずかな天井の明かりとりから、真っ青な光が落ちている。しかしそれも、彼女には意味のないことだ。そんな小さな明かりなど、なんの役にも立たないほどに、ここは暗く、湿っている。 それでも彼女は、以前のように泣くことはない。 怯えて震えながら、背筋を伸ばしてレイムを睨みつけている。 声を封じ、自由も奪った。けれど本当は目も耳も、すべて奪ってしまいたかった。真っ暗で静かな闇の中、だいじにだいじに、その最後の時がくるまでしまいこんでおきたい。でもそうすると、彼女と意思の疎通を交わすことが難しくなるので止めておいた。こういう時、人間は不便だ。言語以外の意思疎通集団がないのだもの。くつくつとそれはわらう。 どうぞ私のためだけに、絶望しておくれ。 そのためだけに、君を生かした。 優しいともおぞましいとも取れる微笑、それはの目にはおぞましいものとしか見えない。 しかしそう、それでいい。ちいさなちいさな、界の迷子。こんなにうつくしくそだった。幼いころのまま、甘美な絶望を抱えて、レイムだけを見、レイムだけを呼んで。それならよかったのにこの娘は目を開いてしまった。 最初に声ではなく目を奪えばよかったのだといまさら呆れたように後悔している。あのときはただ、聡い子供にいろいろと都合の悪いことを喋られては不都合だったので、文字通りに口を塞いだ。暇潰しと三時のおやつくらいに考えていた子供の悲しみはあまりにあまく、とろけるようで、それはもうすっかりその甘露のとりこ、、、もっともっと、絶望をおくれ。 なのに少女は目を開いて、世界に輪を広げ始めた。小さなまぁるい幾つもの円が、少女を守り、取り巻いていった。彼女は人と接し、優しくなり、またそうあろうと励み、自らの愚かさを知り、それを正そうと努め、そしていつでも背筋を伸ばして常にまっすぐに立とうとしていた。たくさんの者とえにしを結んで、それを大切にしようと抱きしめるようにしていた。 それが気に食わない。気に入らない。 そのちっぽけな下らない輪のせいで、はレイムだけを見なくなった。その夜の色をした目に、たくさんのものを写して、それらひとつひとつに微笑みかけ、それらひとつひとつのために悲しむ。かつてレイムのためだけに精製されていた高純度の悲しみ、絶望は、いつの間にか取るに足らない存在にまで、娘の優しい手のひらで配られている。つまらないものたちのためにだけ彼女は怒り、悲しみ、レイムに対しては石のように心を閉ざした。時折覗く悲しげな瞳は、どこか憐れみすら含んでいた。 忌々しい。 もっと早くにこうすればよかった。そうすればいつ誰かにちょっかいをかけられるかと気を揉むこともないし、前のように知らぬ間に痣など拵える心配もない、誰かにその貴重な憐れみを垂れることも、ビーニャのかあいらしい悪意にさらされることも、誰かに愛されることも、ない。 おかげでルヴァイドたちの心も、だんだんと暗く重たいばかりの影の塊になりつつある。まだ生きている兵たちからも、喜び、楽しみ、笑顔、消えてゆく。 噫、愉しい。 彼はここ数年満たされることのなかった渇きが癒されるのを感じている。 はそれでも絶望していない。そればかりが気に食わない要素のひとつではあるけれども、そんなことは些細なことだ。サプレスの濃い魔力が、月から、流れ込んできている。それを呑んで、それはずいぶん大きくなった。もうほとんど、元の通りだ。 だからこのまま、このまま全て積み上げていた駒を坂から転がし落とそう。 うっとりとそれが嗤う。 が音のない唇でなにか呟く。 「なんです?なんと言いたいのです?」 答えられないと知っていて、それは酷く楽しげだった。 にっこりと微笑んだそれに、は顔をしかめた。その口が小さく何事か呻く。その音は聞こえなかったが、なんといったかはもちろんそれに通じた。その顔をみおろして、うっとりとそれは微笑する。 なんてなんて、かわいそうなにんげんのおんなのこだ。 うたうたいでありながら声を封じられ、足には銀の鎖、囚われの身。物語に描いたような、見事な幽閉。高い石造りの塔の上、その城を守るのはいばらではなく屍人の兵。なんともおぞましい、御伽噺と言うには目覚めの悪いメルフェン。 それは声も高らかに嗤った。 なんという恍惚の悪夢、それの持つ魔力は、段々に高まってきている。 もうすぐ、もうすぐだ―――。 この世界すべて終わらせて、愚かな黒騎士も憎い天使も哀れな融機人も恨むべき調律者も有象無象の虫けらどもすべてみな終わらせて―――その戒めを解いて女の咽喉を開こう。するとそのとき彼女はきっと、今まで誰もあげたことのない、透き通って痛ましい、悲哀とも憤怒ともつかない、絶望の悲鳴で彼の名を呼ぶだろう。 それを呑む。 きっとそれこそが、至上の幸福に違いないのだから。 |