城の中であるのに刺すような冷気だった。 ここで暮らす人々は寒くないのだろうか。かじかむ白い息を吐きながら、狭い石の螺旋階段を、三人は足音を忍ばせて登る。まるでいつまでもこの階段の果てがないような錯覚を覚えながら、登り続けている。ぐるぐる、ぐるぐると、この高い塔はどこまで上がるのだろう。下からゆっくりと、軽い足音が追いかけてきていた。足音は一定のリズムで、緊急や警戒を表してはいない。しかしそれでも彼らは顔中に緊張感を漲らせて、慎重に、かつ先刻までよりもずっと物音をたてぬように神経を研ぎ澄ませながら足を早めた。だんだんと階段の幅も狭くなり、彼らの表情にも焦りが浮かんでくる。 自分たちがこの城に招かれざる客であることなど百も承知だ。見つかることは命の危機を意味した。 「…どうしようお兄ちゃん、まだ登ってくるよ…!」 堪えきれないように小さく落とされたトリスの囁きに、シッ、と先頭を行くシオンが指を立てる。 階段はついに行き詰まり、彼らの目の前には丸い木の天井が立ち塞がるばかりだ。この城の者であるならば、この階段が果てまで登れば行き止まりであることなど理解しているだろう。行き止まりに用のある人間はいまい。足音はきっと途中で階段を逸れるだろう。 そう祈るように、きっと、と予想しながらも、やはり近づきつつある足音に平静ではいられない。 どうしようどうしよう、と目を見開いた、よく似た相貌の男女に、静かにとシオンは眼差しだけで告げる。 カツン、カツン、と足音。 もはや二人はびったりと、天井に背中をくっつけて固唾を呑むしかない。その二人をかばうように、また階下を伺いながら苦無を構えたシオンが、小さく振り返った。静かにその黒い瞳が、マグナの目を見る。 「…いざと言うときは――――、」 いいですね?頷きかけられて、ひとつ、マグナは緊迫した面持ちで頷き紫紺の髪を揺らした。その手のひらがもはや使い慣れた腰の大剣の柄を握りしめる。人を呼ばれる前に。シオンの言うところはわかる。彼はためらいなくそれをやってのけるだろう。しかしそれでも、マグナの左手は、鞘をはらうのではなく、腰のベルトからそれごと剣を外す動きをしている。これだけの大きく重い剣なら、抜き身でなくとも昏倒させることは容易い。 カツン、―――カツン。 息を潜めて待つ間に、緊張が昂ぶりすぎてわけがわからなくなりそうな沈黙が募った。もしこの三人が場馴れしていなければ、極度の神経への圧迫感にわけもわからず叫び出してしまったかもしれない。 いよいよ足音は近く、聴こえてくる。 来るか―――? これ以上登りようも逃れようもないと知りながら、それでも思わず、トリスが半歩後退さった。 やわらかい紫紺の髪が、石塔のてっぺんを蓋するように覆った丸い木天井にぶつかる。 ごと、と鈍い音がして、その頭が触れたところが持ち上がった。 かすかな音にぎょっとして振り返った二人は、トリスの頭が持ち上げた木枠を眺めて目を丸くする。それはどう見ても、天井裏への抜け穴らしかった。 三人が逡巡したのは一瞬で、シオンが真っ先に動くとさらに力を加えて天井の一部をそのまま押し上げた。あっけなく開いたその通路に、一度ゴクリと唾を飲み下して頷き合う。 「…まず俺が行く。」 何かあったら、などその後は確認するまでもなく二人にはわかっていたからただそれに頷く。マグナは天井裏に手を伸ばすと、常日頃から木のぼりで鍛えた身の軽さで軽々とよじ登った。 まず手のひらに、厚く積もった埃のザリとした感触。 ――――暗い。 城内も決して明るいとは言えなかったが、その比ではない。 「わ、」 後ろからついて上がってくるトリスとシオンのためによいしょと体を持ち上げると、手のひらいっぱいにやはり埃がついていた。微かな光。天井の小さな明かり取りから、真っ青な光が細く柱になっている。 ついで登ってきたトリスも、「埃だらけ、」 と少し咳き込んで、最後のシオンがそっと上げた木の板を元に戻した。静寂。長い黒髪が埃の積もった床に広がるのも構わず、床下に耳を澄ませたシオンが、「…途中の廊下へ逸れたようです…登ってはきません。」 と心なし語尾を和らげるのを聞いて、ふたりはほっと胸を撫で下ろした。 「よかっ、」 カタン、とも、カリ、ともつかない。小さな音。 はっと全員が、音のした方を振り返る。真っ青な光の向こうには、暗い闇があるばかりだ。しかし段々と、目が慣れてくる。一番最初に、まずぼんやりと、冷たく頑丈そうな、鉄格子が見えてくる。それからその黒い縞模様の後ろに、白くぼうっと浮かび上がる面影。 シオンがいち早くそれに反応して煙幕を投げようとするのと、マグナが 「待って!」 と小さく声を上げるのは同時だった。トリスはまだ目が慣れないらしくじっと暗闇の向こうに目を凝らしている。 チャリ。 先ほどの音はこれだ。金属のこすれるような、少し重たい音。 「牢屋―――?」 「―――ひどい…。」 呟いたのはどちらだろう。 それは女の人だった。長い黒髪に、真っ白なドレス。お姫さまみたいだと、お姫さまなんて見たことないけど彼らは思った。その人はマグナたちを驚きの目で見つめながら、ゆっくり、ふらふらと鉄格子に近寄ってくる。 思わずとっさに、言葉が出ない。 衰弱しきった様子のその人の顔色は、暗闇のなかでもひと際白かった。 その様子に三人が揃って顔を見合わせた。段々目が暗闇に慣れて細部が見えてくる。先ほどからの小さな金属音は、その人の足に繋がれた鎖がたてるものだ。痩せた腕、悲しそうな顔。その人は指先が鉄格子に触れるとそれを握りしめて、隙間から身を乗り出した。腕を外に向かって、懸命に伸ばす。出してくれという仕草にも見えたし、縋りつくようにも見えた。その目が必死に、マグナに向かってなにか訴えかけている。その口がぱくぱくと動いて、しかし音はない。 「…どうやら口が利けないようですね。」 シオンのほんの小さな囁き声に、その人は反応した。首を横に振りながら喉を押さえる。 どういうこと? もう一度三人は顔を見合わせる。 「どうしよう…?」 「見つかってはしまいましたが、なにか言いたいことがあるようです。」 「捕まってるんだよね?この人。」 「少なくとも俺たちの敵…にはならないんじゃないか?」 「なにかデグレアの内情を知っているかもしれませんし。」 ひそひそひそ、と話し合い。その間もその人は、縋るような眼差しで彼らを見つめている。チラリと振り返ってその目を見、ええい度胸と根性。もう一度頷き合って、三人は鉄格子に近づいた。 「大丈夫ですか?」 囁きかけたトリスの声に、その人が必死に指の先を伸ばす。躊躇いがちに手のひらを翳すと、一度それはびくりと震えて、それからしがみついてきた。 なにか訴えかけるように、その口が動く。 どう答えたらいいのか、ぎゅうぎゅうとすがりついてくる指先が痛い。 「あなたは誰?どうしてこんなところに閉じこめられてるの?」 トリスの尋ねる声に彼女は何度か口を動かすが、さすがのシオンも読唇しきれない。会話が成り立たないのではどうしようもない。困って顔をまた見合わせた彼らをよそに、彼女がもう一本の手を掴んだままのトリスの手のひらに伸ばした。 「…あ、」 開かれた手のひらに、細い指先が文字を綴る。その意図を察して、トリスはそれを順々に声に出すと読んだ。 「あ、な、た、た、ち、は、い、き、て、い、る、?」 あっているのだろう。彼女が頷く。 しかし一体、それはどういう意味だろう。その困惑が伝わったのか、彼女が再び文字を書いた。その顔に、縋るような、真剣な色が濃くなる。 「こ、こ、に、は、し、び、と、し、か、い、な、…い?」 今度こそ彼らはその意味するところを朧気ながらに察して絶句する。 まさか? まさかトライドラと同じ、 「に、げ、て、」 文字は続く。 「ル、ヴ、ァ、イ、ド、に、つ、た、え、て、」 その名前にはっとトリスが顔をあげる。 「す、べ、て、わ、な、だ、デ、グ、レ、ア、を、は、な、れ、ろ、」 ―――すべて罠だ、デグレアを離れろ。 ルヴァイド。罠――― デグレアを離れろ。 この人はなにを知っている? 真剣そのものの、縋るような表情。もう一度トリスの手のひらを握りしめた指先が震えている。嘘かどうかなんて疑う余地もない。その眼差しが三人を写して必死に叫んでいる。逃げろ。そうして伝えてほしい、とそう言って。泣き出す瞬間のような、吐息。それすらも悴む白い息になる。 「あなたは―――、」 「マグナさん!」 一体、と言いかけたマグナを、鋭いシオンの声が遮った。はっと振り返ると、目だけで今通り抜けてきた抜け穴を指される。カツン、と遠く、登ってくる足音。しかしそれは確かに、止まることなく登ってくる―――。 「!」 「どうしよう!」 トリスが泣きそうな声をあげる。パニックになりかけた彼女の指先を、その人が再び強く握った。 つ、と文字をなぞる指先。 「あ、」 ―――お、く、へ。か、く、れ、ら、れ、る、た、な、が。 同じようにシオンがそれを見つけたらしい。 「マグナさんとトリスさんはあの中へ!私は足跡を消してから術で隠れます!」 カツン、カツン、と足音。一度その人の方を振り返ったトリスに、その人が頷く。第一印象よりもずっと、しっかりとした気丈な顔だ。白い頬。任せてくれと、言われた気がした。 トリスは一度その手をぎゅっと握ると、離す。「トリス!」 と小声で呼ぶ兄の後に続いて、半分朽ちたような棚の中に飛び込むと、細く隙間を上げて戸を閉めた。窮屈ではあるが耐えられないほどではない。シオンがふわりと風を起こして埃を均一にならすと、そのまま天井へ飛び上がった。その姿もじきに薄れてやがて見えなくなる、と同時。がたりと床が、持ち上がった。それからにょきりと、のばされる指。 「やれ、相変わらず埃がひどい。」 彼らにはどこか、聞き覚えのある声。 (―――キュラー!) 穴から覗いた顔を確認するまでもない。至近距離で兄妹は顔を見合わせる。 「まだ生きておられますか?…様。」 問いかけられた先で、その人はまっすぐに背筋を伸ばしていた。青白い光りが、彼女の透き通った横顔を、照らしている。 |