目の前にいるはずのない人がいた。
 ルヴァイドたちはみなもはや隠そうともせず現れた人影に声を漏らした。いるはずのない人。いてはならない人。白い服も、黒い髪も、なにも変わらない。ただひどく痩せたようだ。それでもその人は立っていた。その場所こそが彼らにとっては予想もしない場所で、思いもしない時だった。極限までに高められた戦の前の緊張感が、足元から崩れそうになる。

!?」
 名を呼ばれてその人は顔を上げた。泣きだしそうな顔も、その必死なまなざしも、すべて本人だった。
、なぜお前がそこにいる!」
 声を上げているのは、ルヴァイドだけではない。ざわざわと広がる驚きは、もはや留めることなどできなかった。本国に―――その塔に幽閉されているはずの人である。なぜその人が、今この戦場に、しかも敵対する勢力の中から歩み出てくるのか。を前へ押し出して、しかし守るようにその後ろに並んだ双子の召喚師と聖女のまなざしが、彼らにますますの混乱を齎す。
「ルヴァイド!」
 よろめきながら、が駆けだす。
 まずその声が、一瞬どこから鳴ったのか、ほとんどの者にはわからなかった。
「お前、声が…!!」
 あまりに軽くなってしまったその体。最後にはよろめいて転びかけながらそれでも飛び込んできたの体をとっさに受け止めて、ルヴァイドは驚きの声を上げた。
 自身の名を呼んだその声をのものだととっさに判じきれたのはルヴァイドだけだったろう。ほかの者は聞いたことがなかったからだ。驚愕の中、瞳にわずかにいたわるような優しげな色が滲んだのを見てアメルはきゅうと胸を押さえた。やはりそうだ。黒騎士は、ルヴァイドは―――ただ冷酷なばかりの殺人者ではない。
「この人たちに助けられたの…お願い、彼らの話を聞いて。」
 ルヴァイドの腕にすがるようにしながら、が彼の目を見上げた。ひとつ、大きく息を吸って、はっきりと発された言葉に、叩きつけるような響きが返った。
「どういうことだ!」
「あなたたちがどんなふうな戦いをしてきたかぜんぶ聞いた―――私が閉じ込められていたのは、ルヴァイドたちがどういう理由を聞いているか知らないけれど違うの…私たちみんな、騙されていたのよ!お願いよルヴァイド、彼らの話を聞いて―――!戦わないで!」
 振り絞るような声。それに対して同じように、心の底から絞り出すような声が答える。縋られた細い腕を握り返す力は、か弱い娘の骨を砕くのではないかと思うほどに強い。

よ、お前がそれを言うのか―――!!」

 絶望したような響きの言葉だった。
 誰よりお前が、知っているはずだろう、と。彼の舐めた辛酸も苦しみもすべて。いっとう知っているはずだろう。そうその瞳が、嘆くように彼女を見る。知っているだろう、。どんなに、どんなにか彼が、彼の母親が、辛い思いを重ね、それでも国と一族のためと罪を負っても心を砕いて―――その暗い緋色の目に、の黒いまなざしが重なった。いつかのように優しく、よく似た悲しみと絶望を込めて。それでも相手を労わるように、やさしく。そうして何かを、痛切に叫ぶ。
「ルヴァイド!お願い!話を聞いて!ねえノルデ!」
 初めて名前を呼ばれて、ルヴァイドの背後に控えていた男がびくりと肩を震わせる。
「聞かぬ―――!俺たちにはもはや!この戦に勝つより後がないのだ!!」
「イオス!ゼルフィルド!お願い―――!ほんの少しでいい!私たちの話を聞いて!それから本当にこの戦いに意味があるのか判断したって遅くはないでしょう!?」
「私たち、だと―――!?、いつからお前はそちらの人間になった!」
 言葉に叩きつけるような質量があった。掴み、掴まれていた腕を振りほどかれ、思わずその怒気に弾かれたようにが背後へとよろめく。
「ルヴァ「聞かぬ!!!」
 轟、と鈍く輝く剣が空を薙いだ。緋色の目が、開かれたまま、はっきりと絶望を映してを見ているのを彼女は後ろに腕を引かれながら眺めた。違う、と言いたいのに呻き声だけ口から出る。お前だけは、ルヴァイドの瞳が、血を流したように光っている。お前だけはと思っていたのに。責めるように、詰るように、失望したようにその眼が叫んでいる。ちがうと伸ばした腕は空を切った。そのすぐ前を、剣が通った。
「ルヴァイド!!」
「だめだ!」
「今の黒騎士には、何を言っても通じやしねえ―――!」
 青褪めて、それでもルヴァイドの方へ進もうとするの体を、抱き込むように押さえてマグナが叫ぶ。リューグの声に、糸が切れたようには座り込んだ。ルヴァイドのその一閃が、戦いの合図だった。次々に剣が抜かれ、矢が放たれる。将とまるで一心同体であるかのように、旅団の動きは苛烈で、捨て身ですらあった。もはやに向かって戸惑うような視線を向けるものはおらず、みな何か、堪え、しかしそれこそ超えるような瞳で、それぞれの武器を掲げていた。そのどれもが、知る顔に違いない、が小さく息を吐いた。それは諦めにも似ていた。そのまま泣くかと思われたが、それでも彼女は泣かなかった―――。今マグナが腕を引かなければ、彼女の胸をルヴァイドの剣は薙いで通ったろう。
 ふらふらとが立ち上がる。

「…戦おうぜ。」

 小さく、強く呟いてリューグがを見る。
 ひとり、ふたりとそれに続く。
「それしかなかろうて…。」
 アグラバインの戦斧を握る手のひらが、白く強張っている。
「今の彼らには、戦うことでしか会話することなど不可能でしょう。」
 白い騎士が、痛ましげに、けれども確固とした瞳でを見た。正確にはの胸の前で握りしめられた手のひらを。血が出そうなほどに強く、固く握りしめられたそこに、紫の石が閉じ込められているのを誰もが知っていた。

「ちからをかして、いただけますか。」

 ぽつんと転がった言葉は、小さく、けれども誰の耳にも届いた。
「私の言葉は…届かない。だから、」
 止めるための、力を。
 不機嫌そうに、しかし小さく笑って、リューグが身を翻す。終わりにしよう、と宣誓のように鳴ったマグナとトリスの声。の手のひらから、紫の光が溢れて草原を染め上げた。異界からの風が、の黒い髪を揺らす。光の向こう、我武者羅に剣を振るう男と目があった。その眼はもはや、として認識しない。彼女はさらに顔をあげて、その向こうを見た。
 じっと恐ろしいほどの無表情で、レイムが彼女だけを凝視している。



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