真夜中だった。台所の裏口が空いていた。気になって覗きこむと、見知った背中が小さくなって座り込んでいるのが見えた。ずいぶんな昔、そうやって泣いていた少女をよく知っていた彼は、ふいに絡め取られるような胸の苦しさを覚えた。
、」
 逃げてしまいはしないかと、そっと静かに囁く男の声は、ずいぶんとやさしかった。もうすっかり落ち着いて、穏やかに凪いでいる。
「お前にも心配をかけたな。」
 それに首を横に振って、がかすかに微笑む。泣きはらして腫れた下の瞼を、覗きこんだルヴァイドが太い指で小さくなぞった。
「…泣いていたのか。」
 わかりきっていることだとわかっていながら聞いた。それしか言葉がでなかったのだ。もっと器用に、慰めの言葉を与えるには、女は彼に近すぎた。そうっとその隣に腰を掛ける。こうして過ごすのはずいぶん久しぶりだった。彼女が塔の上に捕えられて以来だから、もう二年にもなるのだろうか。改めて痩せたと思った。前から華奢な姿だったが、それよりずっと軽そうだと思う。
「ねむれないのか。」
 小さく尋ねられた言葉に、が曖昧に首を振る。
「いろいろ、思い出すの。こうやって、静かな…穏やかな夜になるとね、頭がさえてしまうの。」
 そうか、としか返すことができなくて、彼は少し黙る。この声を聞くことも、ずいぶん久しぶりだった。彼はいったいいつ、あの戦場で、彼女の胸を裂こうとしたことを詫びればいいのか図りあぐねている。
「…むかし、」
 沈黙に耐えかねたように、あるいはその隙間を優しく埋めるように、が口を開いた。
「ああ。」
「昔、大きな月が怖いと言って、泣いたことがあるの。私のいた世界の月は、もっと小さくて、遠くにあったから。」
 落っこちてきそうな、気がしたのよ。と、そう言ってが微笑む。
「その時に、」
 その微笑がこうやって、泣き出す瞬間のように悲しく歪むときは、いつもあの男の話題になる時だと、彼はいつのころからか、もうずっと長いこと把握していた。
「レイムがね、」
 そんな顔をするな。そんな顔をするな
 見下ろしたまま、彼にはそれを言葉にすることができない。
 あの男のためにそんな顔をするな。本当はレイムのためにそんな顔をするを見たくないというのが、本音なのだと思う。けれどもいつも、それは言えないままだ。言えずに胸のあたりに、しくしくと沈殿する。
「むかしむかぁし、暗いお空に一人ぼっちのさみしい月がいて、自らの大地の上に暮らすものもなく、渇いて寂しい心を抱えて、それでも輝く光を辺りに撒いて、うつくしい音を奏でながら、お空を彷徨っていたのですって。」
 銀と金の光を撒き散らしながら、月が泣いている。
 その音すらも、透明に透き通ってうつくしく、物寂しい響き。それはきっと、鋼の櫛を銀で弾くような、高く硬質な、どこか懐かしいオルゴールの音。
「もうずうっとひとりぼっちで、自分の心を慰めるものは音楽しかないだろうと思っていたお月さまは、ある日、小さくて美しい大地を見つけました。その大地は、赤と紫と緑と黒の、よっつの世界に周りをくるくると彩られながら、お空に浮いていました。細く頼りない、一本の真っ白な光の柱が、どこかへ向かって伸びている、不思議な世界でした。」
 よっつの世界に囲まれた世界。それがリィンバウムのことだともちろん彼にはすぐわかった。
「そおっと空からその世界を覗きこんで見ると、大地は緑と水に溢れて、花が咲いて、鳥が飛んで、人々が楽しそうに暮らしていたのですって。」
 少しが、ルヴァイドを見て目を細める。
「もっと近くで見たいと思って、お月さまが身を乗り出すと、その明るさに驚いて、みんな家の中や森の中に隠れてしまったの。お月さまは悲しくて、明るい光を撒きながら少し泣きました。そうしたら、竪琴を持ったひとりの少女が、月の光が良く当たる草原に、進み出てきました。」
 明るい夜の草原に、進み出る少女がひとり。その姿は、どうしてだろう、ルヴァイドの目蓋の裏で、の姿をしていた。
「おつきさま、おつきさま。あなたのひかりはぎんときんにすきとおって、とてもきれい。ももいろの おつきさま、どうしてなくの?」
 歌うような、節回し。幼い頃、よくはそうやって話をした。彼はそのことをしみじみと思いだす。声を失って久しく、ようやく取り戻されたその声は、以前に比べてずっと深く、優しい声色になっていた。
「そう言って少女は歌いました。自分以外に音楽を奏でる者に初めてであったお月さまは驚き、喜んで、すっかり今までの孤独とこの世界を見つけた喜びを語りました。いつの間にか、隠れてしまっていた人々も草原に現れて、お月さまの遥かに時を隔てたお話を、夢中になって聞いておりました。お月さまの声は、透き通った光そのもので、美しい響きをしていたので、それを聴くだけで、うれしくって、さびしい、せつなくって、うれしい、おだやかで、こころさわぐ、やさしくて、かなしい、そんな不思議な気持ちになりました。」
 月を見ると心がざわざわしたり落ち着いたりするでしょう?
 少しそう言って、が再び自らのつま先に視線を落として微笑む。
「けれどやがて朝がきて、遠くでお日様が昇ると、その光の眩さにお月さまは驚き、すっかり隠れてしまいました。山の向こうへ逃げる最中、少女が優しく、おつきさま また今夜、と歌うのを嬉しい気持ちで聴きました。」
「そうしてその夜、またお月さまはやってきました。草原で待っていた、少女が竪琴を奏でて歌います。
 おつきさま、おつきさま。こがねとぎんの ひかり みちる あなた。
 それに合わせて、なんにんかの人々が、それぞれ違う楽器を手に持って合わせて演奏をしました。お月さまはますます嬉しくて、透き通った光を震わせて、それに合わせて歌います。草原に集まった人々は、その音楽をうっとり聴いていました。夜は明るく、光に満ちています。その夜もやがてすぐに過ぎて、お月さまはやはり、少女のまた今夜、を嬉しく聴きました。」
 けれどと言葉を区切ったの表情は透き通って優しかった。
「お月さまがほとんど飛び上がれば触れるほどに大地に近づいて歌い、踊り、語らう晩が七日七晩続いて、八日目の晩、うきうきとお月さまが草原を覗きますと、少女はおらず、人々が銀の竪琴を囲んで
涙を流しておりました。お月さまはすっかり驚いて、どうしたのか尋ねると、あの子はお月さまに会えたのが嬉しくて、お月さまがここへ訪れた時、一番にお出迎えしようと、夜は眠らずにあなたと歌い、昼も眠らず、あなたが昇るのを待っていたのです。そうして今朝、あなたにまた今夜、と言ったきり、その子は死んでしまいました。竪琴の傍らには、白い服を着て花に囲まれた少女が白い布にくるまれて横たわっていました。」
 やはりルヴァイドの瞼の裏で、横たわる少女はの顔をしている。
「お月さまはびっくりして、悲しみに声を震わせました。そうして喜びに浮き立った心が静まり返ってよく見れば、人々は疲れた顔をしています。夜が明るくては、よく眠れず、代わりに昼寝ようにも、昼はまた、もっと明るいからです。お月さまは、泣き出しました。せっかくであえた、うつくしい、あいすべき世界。ああけれど、わたしがそのひとびとをくるしめるなんて。噫、わたしはいったい、どうすればいいの?」
 そう物語を紡ぐの声音は、お月様そのもののような、悲哀と懺悔に満ちているようだった。心の臓を絞るような、痛切な響きをしていた。それなのにどうして、とルヴァイドはともすれば泣きそうに眉をしかめた。どうしてずっと、悲しげなその声を、聞いていたいと思うのか。
「そのとき、銀の竪琴が震えて、透き通った少女の声色で歌い始めました。
 おつきさま、おつきさま。やさしい、ぎんの ひかり みちる。
 ふるえる きんの ひかり みたす。
 よるがくらいのはかなしかろ。
 よるがくらいのはさみしかろ。
 あなたのうたはうつくしく、いついつまでもきいていたい。けれどあなたはかがやきすぎる。
 どうぞみながよくねむれるよう、そのひかりでよるのてんがいをあんで、ねむりのばんをしてください。
 そうしていつまでもいつまでも、うつくしいひかり このせかいになげてください。」
 の歌はしみじみと、少女の声音で小さく鳴った。
「それを聴いてお月さまはやっぱり少し泣きました。それから小さな、小さな声で、わたしはこのせかいのよるをこわさぬちかくてとおいふちにとどまり、このせかいのよるをわたしのひかりとしょうじょのうたと、やさしいしずけさとくらやみでみたそう。そう言いました。」
「去ろうとするお月さまを、ひとりの青年が呼びとめました。
 おつきさま、おつきさま。やさしい、ぎんの ひかり みちる。
 それはいつも少女の歌う詩でした。詩人であり少女の恋人であったその青年はおつきさま、ひとりはかなしかろ、とそう歌って、そおっと少女の亡きがらを抱えると、人々の用意した長い梯子を昇って、金と銀とに輝くその大地に降り立ちました。他にも梯子を昇ってきた人々と、彼はお月さまの大地を掘って、そこに少女と白い花とを埋めました。それからそっと梯子を下って、
 おつきさま、かのじょはほんとうに、あなたのことをあいしました。
 そう言って少し泣くように笑って、少女の銀の竪琴をとりました。ポロン、と美しく、少しさびしい音が夜のしじまと月の光に染み通ってゆきます。
 わたしはここで、いつまでもあなたとかのじょのことをうたいましょう。
 ですからあなたは、どうぞあのことともにいつまでも、やさしいひかりとやさしいうたで、このせかいをみまもっていてほしいのです。」
「お月さまは少女をいだいたまま、そっと頷きました。それからそおっと、地上から離れて遠ざかりました。梯子をかけて昇れるほどだったお月さまは、随分遠く、皆の眠りをその光が妨げることのないぎりぎりまで離れると、そこでぴたりと静止し、優しい優しい銀の光と、黄金の光で編んだ歌とを、どこか少女に似た声色で、静かに静かに、夜に降り注がせ始めました。今もお月さまはその約束を守って、そのぎりぎりの淵に立ち、この世界の夜と眠りと歌とを見守っています。だから私の世界よりも、この世界の月は近くに、大きく、大地と寄り添っているのです。月にはもう忘れられた少女の名前をした花が咲き乱れていて、お月さまと歌うのですって。降り注ぐ月の光は、花の花粉と混ざり合って、魔法力<マナ>としてこの世界に蓄えられて、より一層このリィンバゥムに恩恵と力とを齎しているそうです。…おしまい。」
 吟遊詩人の起こりのお話でもあるのですって、とが首を傾げ、ルヴァイドは目蓋の裏に浮かんだその青年の顔がある忌々しい男のものであったことに内心首を振ってそのイメージを掻き消す。今はそんなことに、心をささくれさせている時ではないだろう。
 たいせつな話を、はしている。そう彼は感じていた。
 だからじっと黙って見下ろしたその眼差しを受けて、が首を傾けさせる。その顔は一瞬彼に向かって微笑もうとし、しかし失敗した。
「…レイムはこのお話だけ知らない、覚えてない、って言うの。」
 膝に顔を埋めて、が少し泣く。
 それは優しい嘘だったろう。
 見慣れぬ異界の、月が怖いとなく少女の心を慰めるために、男が懸命に紡いだ、優しい優しいものがたり。だからその小さな嘘は、レイムの中に、知識として―――血識として、残ってはいなかったのだ。彼が生前知識として蓄えたもののなかから、少女に披露したのではない、月が怖いと泣く子供を慰めるために即興で紡がれた詩。それは彼の中に定着して残ることはなかったが、それゆえに悪魔に奪われなかった。ただ少女の中にだけ、今もひっそり残っている。
 今はもうしかしらないお話。
 それを語って泣きながら細く震える肩を、抱いてやれたらどんなにかよかっただろう。
 けれどルヴァイドには、とっさにそれができなかった。がなく。泣いている。幼い頃、それを慰めるのは自分の役目だった。けれどそれは、本当は違ったのだと彼は今になって思う。本当は、その役目はレイムのものだった。ある日レイムがそれをしなくなったので―――彼に回ってきただけだ。そして決まって、が泣きやむのは悲しいことがなくなったからではない。いつまでも泣いていては、ルヴァイドを困らせるからだ。いつも折れそうな風情で、「だいじょうぶ、」 とぎこちなく微笑んだ少女。一度彼がその役目を放棄して以来―――いったい彼女はどこで泣いていただろう。
 ふいに思い至って、彼はその手をゆっくりとその背に伸ばした。抱きしめたりはしなかった。ただぽん、ぽんと、あやすように優しく撫でる。
 そうだ、一度彼が彼女を避けて以来、こうしてが自分の前で泣くのは初めてだった。穏やかな和が戻ってきてからも、は決して、ルヴァイドの前で泣こうとはしなかったのだ。
 撫ぜているとその指先が震えるまま伸びてきた。迎えるように体を近づけるとぎゅうと服を子供のようにが掴む。縋りつかれる。本当にが縋りつきたいのはだれだろう。
 そこまで考えて彼は首を横に振る。
 今の前にいるのは紛れもなく自分ひとりだった。
 今度こそ背中ごとぎゅっと閉じ込めた。
 小さくてあたたかだった。





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