「じゃあここは、ほんとうに違う世界なの?」

 やっと少女が落ち着いたところで、彼はなんとか旅で培った知識を総動員して、この異常な事態の収拾を試みた。空から降ってきた少女は、話をするうちにだんだんと子供らしからぬ冷静さを取り戻していき、同時に彼は話を聞くうちにその冷静さの理由を知ることとなった。
 そうして出された結論に、少女は信じられない、と顔を曇らせる。

「そうです。…この世界には召喚というシステムがあります。」
「しょうかん…。」
「あなたはおそらく、名もなき世界から召喚されてきたのでしょう。その際…、」
 そこまで言い終えて、彼はためらいがちに少女を見下ろした。少女はいかにも非力で幼いただの少女で、危険な物とは思えなかった。
「普通、異世界からなにものかを召喚できるのは召喚師という存在です。召喚師が召喚した召喚獣が、召喚師自身の力を超えるような、強大な、凶暴な力を持っていた場合―――召喚獣には自然と召喚の際に制約がかけられ、時には本来の力を封じられたり、体が幼児化してしまったりもするそうです…その理由までは私はきちんと召喚術を勉強し終えなかった人間なのでわかりかねますが…。」
 すまなさそうに告げられた言葉に、「私、きょうぼうじゃないよ…?たぶん。」 と呟いてから少女が眉をしかめる。幼児化してしまったせいで、どうにも子供じみた舌ったらずな発音になることが先ほどから気に食わないらしかった。ほんとうなのね、と彼の瞳を見上げ、そこに何を見たのか、少女は落胆したようにつぶやいた。
「コナン君じゃあるまいし…。」
 彼にはよく意味のわからないことを呟きながら、少女ががっくりと肩を落とす。そのしょんぼりしている様子を見ると、彼はなぜだか、なんとか勇気づけてやらねばという気分になった。知らない世界にたったひとりで放り出されて、おまけに体が縮んだなんて、自分だったらどんなにかショックだろう。

「…申し送れました。私は吟遊詩人のレイム。」

 ポロンと彼は竪琴を鳴らす。銀の髪が光に透けて、とてもきれい。
「吟遊詩人…こっちにもあるの。」
 やっと少女が小さくわらった。それが彼には、なぜだかとてもうれしくて。
「あなたの世界にも?」
「大昔にね。」
「ではもういないのですか…残念です。」
 残念そうに微笑んだ彼に、少女は慌てて首を振る。
「私の国にはいないけど!ほかの国にはまだいる!…かも。」
 ばつが悪そうにつけたされた言葉に、彼は今度こそにっこりとわらった。それに少女も口端を持ち上げる。

「レイムは旅をしてるの?」
「ええ、私だけの真実の詩を求めて。なのでまだ私の歌には、詩がありません。」
「うたがない?」

 体が縮んだ、と先ほどパニックになりながら説明されたが、どうみてもその仕草は幼い少女にしか見えない。ただ表情だけが、子供にはない複雑さでくるくると動く。
「ええ。吟遊詩人というのは、自分だけの、たったひとつの真実の唄を求めてさすらうもの。その唄を見つけるまでは、どんな素晴らしい音であっても唄ではありません。しかし……………実はですね、」
 笑いませんか、と内緒話の響き。それに少女が、くすくすと肩を竦める。
「実は私は、楽器は得意なのですが、歌のほうがてんでダメなのです。」
 それに少女は目を丸くして、くすくす笑い出した。
「うそだぁ!」
「残念なことに本当です。師匠のお墨付きですよ。」
「ええ〜!」
「ですから私は決めたのです。真実の唄が見つかるまでは!せめて、歌わずにいよう、と!」
 繊細なつくりをした優男がムンと握り拳作って熱く主張する様がよほどおかしかったのだろう。少女は楽しそうに笑っている。しかし目を見ればすぐにわかる、孤独と不安にゆらゆらと水が揺れている。

 少しふたりはしんとした。少女がぷらぷらさせていた足が、やがて元気をなくして投げ出されたまま動かなくなり、肩がしょんぼりと下がってゆく。だんだん俯き気味になる顔が、すっかり髪の毛に隠れる頃、彼は優しく口を開いた。訊くのを忘れていましたと微笑して。

「あなたの名前は?」

 そっとささやきかけるような、優しい声音だった。この声で歌ったらどんなにか美しいだろうに。
 勿体ない。
 少女の膝にはたりとしずくがひとつ落ちたのを、彼は見なかったことにする。
「…。」
 少女はそこで、顔をあげた。
 白い頬の上に涙の筋があり、目の縁いっぱいに水が溜まってはいたが、彼女はそれ以上泣かなかった。わずか食いしばられた口と、それでも毅然と顔を上げた表情に、初めて彼は先ほど告げられた彼女の実年齢を実感した。
 少なくとも4、5歳の少女が浮かべるには、戦乙女のように透き通って、凛とし過ぎている。
。」

 彼には耳慣れない響きだったが、どちらが名前かはなぜかすぐにわかった。
さん。」
 こくりと少女の仕草で彼女が頷く。涙はゆらゆらと揺れて、しかし、こぼれない。
「先ほどあなたは召喚されたと言いました。…これからあなたにはよりつらいことを言わねばなりませんが、どうぞ落ち着いて聞いてください。」
 だまったまま、再びがことりと頷く。
「本来召喚とは、召喚士がこのリィンバウムを取り巻く異世界の住人――― 一般的に "召喚獣" と呼ばれます、を召喚し、使役する術のことなのです。しかし私は、あなたを呼んではいませんし、私の周りにもあなたが落ちてきたとき人はいませんでした。…これがどういう意味かわかりますか?」
 ふるふると少女は首を振った。
「召喚された "召喚獣" は、役目を終えれば "送還" され、元の世界へ帰ります。しかし、」
「…わたし、役目しらない。」
 驚くほどはっきりと、少女が言った。
 それに彼は、ゆっくりと頷いて見せる。その間もその目をから離さなかった。それが真摯な姿勢を示せるたったひとつの態度だと、思ったからだった。

「そうです。あなたの召喚主は誰なのか、いるのかすらわかりません。なんらかの理由で主を持たない召喚獣を、"はぐれ召喚獣" と呼びます。送還してくれる召喚主を持たない彼らは、自らの世界へ帰ることができません。」

 彼はなるべく静かに淡々と、ゆっくりと自分の知っている真実のみを言い切った。少女のてのひらは、握りすぎて真っ白になってしまっている。それはとても、痛ましい景色で、彼はその小さく震えながらも泣くまいと見開かれたままの目玉を見、悲しげに眉を下げたあとで、そうっと小さな手を取った。
 子供の手のひらに、男の、楽器を扱う長く白い指先が添えられる。節のない指は、男性にしては優美だが、少女のそれに比べると、やはりずいぶん頼もしく見えた。力を込め過ぎて堅くこわばった指をひとつひとつ解いてやりながら、レイムはそうっと、口端に微笑を添える。

さんは歌をうたえますか?」

 その言葉に彼女はきょとりと目を見開いた。拍子についに、涙がひとすじパタリと落ちた。
「うた?」
「ええ、そうです。」
 なんの話だろうかとその目があらゆる感情を湛えて彼を見つめている。
「私は楽器が得意なのですが、歌はいかんせん…しかし吟遊詩人とわかると歌を所望される方も多くて、私はしょっちゅうお断りするのに困ってしまうのです。」
 じっと黙って、少女は聞いている。見開かれたままの目は、しかし乾くことはない。
「私が楽器で音を奏でて、あなたが詩を歌う…というのはどうでしょう?」
 今度こそ少女の目がまんまるになった。長い銀の髪をした男が、竪琴を片手にふぅわりとわらった。






   。