「やめて、」 黒い霧の中、笑い続けていたそれの目に真っ白な指先が映った。不思議なことにそれは、内側から白く発光しているように見えた。触れたものの精神を苛むはずの霧の中、娘は微笑んでいた。その微笑み。悪魔の嘲笑が止まる。それはかつて、彼の憑代であった男に向けられていたものだ、それには決して、向けられることがなかった類の。それは男の記憶を覗き見る時とルヴァイドたちと娘が会話している様子を覗き見る時のみその微笑を見ることができた。それが自分に向いていた。そんな日が、そんな瞬間を思ってみたこともなくて、それの思考が一瞬止まる。 「やめて、メルギトス。ぜんぶこわれてしまう。」 囁くような、少しかすれた美しい声だった。かつて自らの塞いだ喉の鳴らす音に、それは驚き目を開く。 『無駄ダ、』 やっとそれの喉から鳴った声は、もはや機械と重なってずいぶんひび割れ、劣化して聞こえた。かつて何千の人や悪魔や天使を奸計に 陥れるために麗しく鳴ったその喉。 『もハヤ私ニも、止メられマセん。』 「そんなはずない。」 『嘘でハない。』 いいえ、とやはり娘が笑った。 その白い手のひらが、悪魔の頬のあたりに伸びた。むき出しになった肉と、機械とが融合している醜い頬に、美しい指先が触れる。 白い手のひらに黒いオイルとも血ともつかない液体がついた。 それをどうにも、落ち着かないような気分でそれは眺めた。だからその気分をかき消すように、すべて歪めるような笑い声を発する。 『ミンな、ミンな死んでしまエ―――!!!』 「あなたに私はころせない。」 ほたりと何かが、それの上に落ちた。機械の体はなにも感じぬはずなのにそうとわかった。あたたかい水だ。かつてこの世界の終りに、 彼女の目から絶叫と絶望と共に流されるだろうそれを呑みたいと思ったもの。ほたりほたりと水が落ちる。花の散るように。 『何ヲ、』 すり、とその手のひらがそれの頬を撫でる。 大切なたったひとりを奪ったお前が憎いと、そういったその手のひらで撫でる。それは娘の目を見る。濡れている。誰に泣かされたのだろうと思った。まったくこれだから目を離していられない―――子供付きの憑代など、魔力が高いからと言って選ぶのではなかった。とかく子供というものは、四六時中気にかけていなければ、いつどんな悪さをするかされるか知れたものではない―――特にこれはかわいらしいから――――。一瞬それの思考が過去へ飛ぶ。まだかつて目の前の女は幼く、憑代の体にガタは来ていなかった。レイム?とおびえたようにいつも少女はそれを見上げ、そのたびにそれはひどく満たされた。 「あなたは私を殺さなかった。」 今はそのかつて少女だったものが、それを見下ろしている。悲しげな、どこか優しい表情。もはやほとんど瓦解せんとしているそれの体を、ただ撫でている。どこか優位に立っているようなその表情が、気に食わない。ああけれど、そんな顔初めて見た。あなたは決して、私に微笑みかけはしない―――。 黒い霧が、とめどなく溢れ続けている。遠くで悲鳴が聞こえる。世界がきしみ、狂いだす音だ。邪魔だと思った。女の声が聞こえない。すべて邪魔だ。時折霧に、女の微笑が隠れる。見えない。無意識に伸ばした指先がボロボロと崩れる。 噫、邪魔だ。すべてが煩わしい。 もう一方の腕を伸ばした。半分崩れながら、それでもそれは女の頬に触れた。ちょっと女は顔を歪めて、それからやはり笑ったようだ。少し動かされた指先は、ちょうど涙をぬぐった。偶然の動作。静かだった。どこかへ行ってしまえ。ふいに突き上げるようにそう思った。現在の吹き荒れるその中心にいるなんて、愚かにもほどがある。どこかへ行け。行ってしまえ。私の目に映らない遠いところへ。この風の吹かぬところへ。風はそれの内側からびゅうびゅうと吹き続けていた。女の髪が煽られて宙に舞う。舌うちでもしたい最悪の気分だった。 どうして愉悦のまま、自分の世界が終わらない? 『去レ。』 一度響いた音は、ずいぶん頼りなかった。 もう無理なのと女が笑った。黒い霧が、足元から彼女を脅かしていた。 「それでもあなたは、」 人間風情が悪魔の王に何を言うのだ。 もうそれの顔は半分以上崩れかかっていた。それでも女は両手でその残骸を押し包むようにその場所に留めていた。女の言いぐさはあんまりだと思った。何年も長い間それに支配され飼われていた哀れな小娘が、最期だからといってなぜこんなにも悠然とすべて知った風な口を利く。 いい気になるなよと言おうとして、けれどふいに、そうだったのかもしれないと思い当たる。ああなんだ。そうだったか。なんと愚かしい。噫だがそうか。そうだったのかもしれない。 あまいかんろ、あれをひとくちのんだときから、もはやそのとりこ。 、もっと、もっと、おくれ。そのすきとおったうつくしいかなしみをおくれ。レイムのためにながすなみだをおくれ。わたしのためだけに、これからさきもずっとぜつぼうして―――。 女が時すら止めるように微笑んだ。まるで、そう、かつてレイムにそうしたように。すべての信頼と親愛をこめた微笑だ。うつくしいほほえみ。 そうだそれこそがお前のなしうるもっとも残酷な復讐だ。 、。私が憎いか?もはや私のためだけに、お前は決して、ぜつぼうしない―――。 「私を、ころせない。」 の手が、両方とも、悪魔に伸ばされる。 いけない、と思う。 汚れる、歪む―――――壊れる。 「めるぎとす、」 やわらかい体がそれをだきしめた。その唇がなにかくちずさむのが聞こえた。 歌だ。 この場に相応しくない、ひどく優しい歌。 そう判ずると同時に、それの耳が崩れた。 ―――いけない。 パキンと何かが割れる音がした。 紫の光が迸る。 忌々しいとつぶやいた口端はもはや崩れてどこにもなかった。 |