男の体が、端からもろりと崩れた。 それにはっとした後で、彼は気がつく。 ―――最初から朽ちていたのだ。 それが崩れたのは、目の前のもつれたグロテスクな闇の塊の爪に、抉られたからだけではない。元からほとんど、崩れかけていた。それにやっと気がついて、彼は目を丸くする。崩れた目玉が、笑いながら彼を見ていた。わらっている。あざわらっている――――。 もうおそい。 そう言って。 『やレ、随分ト長ク待たさレました。』 どこか遠くから、幾重にも重なって響いてくるような、不快な音声だった。それは笑っているようでもあり、ただしわがれているようでもある。暗い暗い森の中、物音ひとつなく、ただ目の前の物体だけが、シュウシュウとしわがれた呼吸の音をさせている。それは本当に、暗い影が縺れて固まったもので、その隙間から剥き出しの筋肉と骨、目玉が見えた。鼻を覆いたくなるような臭気を発するそれもまた、朽ちかけているのだとわかる。羽毛のないツルリとした黒い翅。サプレスの召喚術を得意とする彼には、それがなにかすぐにわかった。 「―――悪魔、」 『ソうですよ?なにヲ驚くのカ?ここは悪魔ノ森。知って訪レたろうに。』 しわがれた咽喉が鳴る。 その闇の塊は、それとは対照的な一条の光の塊に貫かれて、その場に縫いとめられていた。黄金がかって眩く光を放つその槍は、暗い森の中、異質なほど清浄な気を纏っている。彼をこの森へ誘った男が、「俺には触れないのさぁ。」 と意味ありげに笑って指示した一枚の天使の羽と、同じ輝き。 禁じられた悪魔の森。 御伽噺の森は実在した。ならばこの森は、太古の昔、このリィンバゥムを征服せんと襲来してきた悪魔の軍勢を封じた森であるのだ。召喚師には、ある程度馴染みのある話。 昔々で始まる物語。 昔々――――、まだエルゴの王たちが世界と契約を結ぶよりも昔、他界に対して無防備だった、美しく、魔法力<マナ>の溢れる豊かな大地、リィンバゥムは、常に外の世界よりの侵略者に悩まされておりました。サプレスからは悪魔たちが、シルターンからは鬼神や悪鬼の類が、マナの枯れたロレイラルからは機械兵士たちが、リィンバゥムの豊かなマナを狙って絶えず攻撃をしかけていたのです。しかし外の世界からリィンバゥムにやってきたのは、恐ろしい敵ばかりではありませんでした。優しく慈悲深く清廉な天使たちや、猛々しくも神々しい龍神、"善き"鬼神たち、その他にもこの美しいリィンバゥムに好意的な生物たちや、また自らの敵対する悪魔や鬼神を妨害するために兵を動かしたロレイラルの機械兵士たち、そういったものたちが、リィンバゥムにに暮らす人間の味方となって、侵略者との戦いに力を貸してくれていました。まだこの頃、リィンバゥムに召喚術と呼ばれる術はなく、異界の友たちは、自らの意思により、人間のために戦ってくれていました。リィンバゥムをめぐる攻防は、もう長いこと続いておりました。それでもなんとか、異界の友の助けによって、人間たちは自らの大地を守ってきたのです。しかしある時、サプレスでももっとも力ある狡猾な大悪魔が、リィンバゥムを我がものにせんと、兵を率いやってきました。大悪魔との戦いは、百年に及び、人も、天使たちも、随分と草臥れ果てました。そしてあわや負けるというその時、ひとりの天使が大悪魔に一騎打ちを挑みました。豊穣の天使、アルミネ。その天使は自らの命と引き換えに、戦いの場所であった森ごと、大悪魔とその軍勢を封じ込めました。そうしてリィンバウムは救われ、今もアルミネは森を守る結界となって、その恐ろしい悪魔たちを封じ続けているのです――――。 『知ってイるでしョう?』 ニタリ、と確かに、その半分朽ちかけたような悪魔が嗤ったのがわかった。 黄金の光の槍で封じられ、封じられながらその恐ろしい爪と牙を奮う悪魔。これは。これこそは―――。彼の体中からどっと冷や汗が吹き出す。先ほど男の体と一緒に抉られた右腕が、ひどく熱い。見下ろせば、当たり前だ。血が出ている。 さんが見たら悲鳴を上げて大騒ぎしそうです。 こんなときであるのに―――こんなときだからだろうか、彼が少しくすりと笑い、それに悪魔が、首を傾げる。 『まッたく、長いこと泳がせておイた割に音沙汰モなく、どこかで野たれ死んだかとオもいましたが―――、』 その目玉が、ぎょろりと崩れてほとんど塵芥になった男を見る。 『ヨイ器ヲ探シテ来タモノダ。』 さらさらと崩れた男の体から、ゆらりと影が立ちあがる。 そうだ、サプレスの生き物はそもそも精神体であるのだ。リィンバゥムに適応するために、かりそめに形を持つに過ぎない。こうしてこの大悪魔が動けずにいるのは、物理的な槍に貫かれているからではなく、それが同じく精神の光で構成された、槍であるからだ。 槍があわく、光を強める。 忌々しいと大悪魔はひとつ唸って、ぐいと身を起こした。ズブリと槍が、より深く刺さる音がする。それすら構わず、悪魔は身を起こす。いつの間にか、彼らの周りに、何体もの悪魔たちが、ゆらゆらと集まって取り囲んでいる。なにかを待ち焦がれるような、視線の集中。彼は息をすることも、動くこともできない。その懐にしまった羽が、高く澄んだ音を立てて震える。 悪魔の紅い目。 真黒な爪が伸ばされる。彼はそれを、目を逸らすこともできずに見ている。なんという気分だろう。絶望がゆっくりと、鎌を振り下ろす、その時を待っている。時間が緩慢に進み、まるで空気は重たい液体になってしまったようだ。スロウにわらう悪魔。 だから言ったのにとあの子は怒るだろうか。 なにかが壊れるような音がして、光の槍が霧散した。 途端世界は、速さを取り戻す。 ヒュッと風を斬る音。 ――――それとも泣くかな。 美しい目蓋を伏せながら、もはや彼はもうなにも見ない。 |