あなたはだれ、と震える声で佇む少女に、それはにっこりと口端を持ち上げた。 傍から見たらそれは優しく、穏やかな微笑にしか見えないことだろう。事実彼は、持てるすべての優しさと穏やかさを持ってして微笑んだ。かつてレイムという男がそうしたように。 しかし少女は、それを見て怖れ、慄いている。 そのことが"それ"には、たまらなく興味深く、面白いことだった。 やっとのことで、解き放たれて、手に入れた体だ。その血識は、それなりに甘美であった。それなりに代々続いている、それなりの家系。中の上、と言ったところだろうかというのが、それの正直な感想だ。ただ久方ぶりの食事であったので、甘露のようにその舌には感じられた。 生物の血には、ありとあらゆる様々の情報が、溶け込んでいる。本人の預かり知らぬ過去のこと、その祖先たちの脈々と受け継がれてきた歴史と知識、そしてその本人の生れてからこれまでのこと。すべてが血には溶け込んでいる。それを直接摂取して知識と情報を得る方法は、悪魔たちの間でも賛否両論分かれるものだったが、手っ取り早くて"それ"は好きだった。なにより食事と学習とを、いっぺんに済ませることができるのは効率的で良い。 それは美しいものが好きだった。 美しいものをみると歪めてやりたくなる。美しいものを見ると握りつぶしたくなる。美しいものをみると自分のものにしたくなる。 この男も美しかった。 とそれは思う。今は自らが収まっている、空っぽの器。 「姦計」 と 「虚言」 とを司る大悪魔。 それがそのものの名だった。 今彼が纏っている肉体の持ち主の血識を得て、彼は少し、これからの計画に余興を入れた。本当ならすぐにでも、自らを封じた彼の一族と天使とに、一矢報いるどころか倍にも三倍にもして恨みを返してやりたいところだったのだが、その血識の中に、なんとも興味深いものを見つけたのだ。 悪魔は人の、負の感情を好む。 なんとこのレイムという青年の、清く正しく美しかったことだろう。負の感情などとは、まるで無縁。いつも優しい目で世界を見、優しいことを考え、優しいことを行う。うつくしいにんげん。"それ"はそういったものすら大好きだった。美しければ美しいほど、高潔であれば高潔なほど、それの手に落ちてきた時の落差にゾクゾクするような愉悦を覚えた。 見てみろ、今、こうして、整然と寸分変わらぬ微笑を浮かべているのに、ほんの三日前まで、この微笑に対してうれしそうに、とろけるような愛らしい笑顔を浮かべて安心しきっていた少女が、怯えるこのざまを。 ああ、たのしい。 つい、レイムの顔の上にそれ自身の表情が浮かんで、それに少女が身を竦ませる。 「どうしたんです、さん?」 名前を呼ぶだけで、怯えている。これは非力でかわいそうな、たったひとりぼっちの生き物。 解き放たれてすぐ、こんなにも楽しい生きた玩具が手に入るとは思わなかったとそれはわらう。 「あなた誰、」 小動物というものは、弱い分敏感だ。 血識から得た情報では、レイムという男が禁忌の森へ至るなどという愚かな方法を選んだのはすべてという少女の薬を得るためだ。そして得た薬によって一命をとりとめたは、宿屋でレイムの帰りを待っているはずだった。最後の最後までこの男の中にあったのはこの少女のことばかりだ。 怒るだろうか、悲しむだろうか、泣くだろうか、ひとりぼっちにしてしまう。わたしのたったひとりの―――。 それきり吟遊詩人の、世界は途切れる。 ひとつの世界が終わっても、それすら知らずにやはりは待っていた。 最後に"レイム"が彼女に接触した時行かないでと泣いて縋ったように、そのままレイムの無事を祈るように待っていた。小動物の第六感というのは馬鹿にならない。現にこうして、レイムは無事ではないわけだから。 宿屋のドアをノックする。「レイム!?」 とずっと待ち構えていたらしい必死な声音。パタパタと軽い足音。勢いよく開くドア。それはもうその時からすでにゾクゾクしていた。ああ、まだ見ぬは、一体どんな反応をするだろう。もし無事でよかったと泣いて抱きついてきたら、おもいきり甘やかして優しくしてどろどろにかわいがってそれから惨たらしい目に合わせてやろう。もし馬鹿と怒りながら泣きだしたらやっぱり思い切り甘やかして優しくして謝ってやって、その小さなつま先に跪いてくちづけてやったっていい!それからやはり、目も当てられない陰惨な目にあわせてやろう。もちろん優しいレイムのままで。 しかし少女の反応は、想像していたどれとも違った。 パッとドアを開けて、レイムを見上げた瞬間、その涙を浮かべて眉根を寄せた、しかし安堵したような表情は凍りついたのだ。 「誰なの、」 少女の声は震えている。その頬は血の気が失せて真っ白だ。 その様子を見てそれはわらう。 「…かしこい子はだいすきですよ。」 小さなちいさな、囁くようなひとりごとにが声もなく悲鳴を上げる。賢い子供は好きだった、愚かで愚図で馬鹿な子供の何百倍もマシだからだ。しかし賢過ぎるのはいただけない。 ああ、余興は多いほうがいい。それは少女の前に屈んで、その体の持つ記憶の通りに動く。 「心配かけましたね、さん。治ったようでよかった。」 怒られると思っていました、と困ったような、優しい笑顔。 その完璧な微笑を浮かべながら、彼は少女の細い首にほっそりとして長いレイムの指を這わせる。 それはもうすっかりこの"レイム"になりきることを気に入った。十二分な暇潰しになる。それにこの美しい様子や吟遊詩人という職業は、役に立つだろう。美しい小さな少女を連れているという点も、役に立っても損はない。 すべてやり遂げるには、それなりに時間がかかる。 色の失われてゆく少女の顔を、彼は心行くまで眺める。ああ、この男は色々なおもしろい血識を持っているものだ。彼の記憶にある、北の国へ行こう。人間の体と来たら、とかく腐りやすいものだ。"それ"ほどの悪魔になれば、死んだ肉体が朽ちぬように、血を廻らせることももちろん可能だが、面倒は省いた方が良い。それは効率を好む。それにその国からは、姦計や政争、謀略や欲望といった、悪魔の好む匂いがする。 「おや、どうしたんですか?」 少女の顔が、蒼褪めてゆく。 「さん?」 そしてなにより、暇潰しには、かあいらしい少女の悲しみだとか絶望が、なにより手軽で丁度良いのだ。 |