時が動くのは目まぐるしく落日を見るよりも顕著だった。落下する速度は止まらない。ただ落ちるその様だけが、嫌にスロウに目に残って、いけない。 第一報は任地でアグラバインの部隊が壊滅したというものだった。重傷を負いながらもひとり逃げ伸びてきた銀髪の召喚師の言うことには―――だ。次いでその男が、元老院議会から絶大な信頼を得始めた。疑り深く自らの利益を優先する老獪な爺共が、ひとり、またひとりと手放しで彼の意見を受け入れ始めたのである。今まではレディウスとアグラバイン、二人が意見を揃えれば無理難題を押し通させるようなことはなかった。しかし双壁の片方を欠いた途端、議会は転がるように動き始めたのである。 彼の兵器を手に入れることを、第一の使命と思え。 その決定が下るまで1年を要さなかったことこそが異常だ。そして誰も、そのことに気がつかないこともまた。 レディウス様に紹介していただけて本当によかったと、レイムが微笑む。しかしもはや彼の目に、それは禍禍しいものにしか映らない。 議員の信用を得てから、高い地位を保証された彼は、そうして得た金銭で、に良い食物と、良い暮らしと、良い服と、手に入る全てを与えているように見えた。当初のレイムの話では、きちんとした生活を送らせてやれば自然と回復するだろうということだったの声は、3年経った今も戻ることはない。 議会と軍部の中核を担う彼との間に、不和が生じている。軋轢が大きくなる。 どこか以前よりも増して、寒々しい気配が強くなっている。 この国はどうなってしまうのだろう。 尋ねた問いを真剣に聞いたり笑い飛ばしたり共に考えてくれる友はもうない。 帰ってきたのがお前であればと、には悪いがそう思う。 しかし彼は、もう気づいている。 も彼と同じように、帰ってきたのがアグラバインであるならば―――レイムが帰ってこなかったなら、とどこか絶望しながら希っている。 「父上、」 気遣わしげな息子の声。 「父上、が泣くのです。」 小さく綴られた、文字の羅列。少女は言葉を音ではなく文字に書いた。 レイムは変わった。そう、が嘆く。 「、いったい、どうしたんだ?レイム殿と、喧嘩したのか?」 は首を振る。 レイムは優しい。レイムは優しい、と。レイムは変わった。今彼は私のみに優しい。そして多分、そのことすら気のせいだ。そんなことどうやって、まだこの世界の文字も拙い彼女に言えよう?それでこの異常の、なにが伝えられる? だっておかしい。おかしいのだ。なにもかもがみなすべて変わってしまった。レイムと眺めた世界はいつだって、鮮やかに美しかったのに。 『レイムは変わった。』 はなにに怯えている?なぜ声がでなくなった? 「―――すべての答えは、お前ではないのか?」 ゆっくりとした、しかし確信を含んだその問いかけに、漫然と男が振り返る。美しい銀の髪、温和な顔立ち。初めて会った時、うつくしい青年だと思った。しかし今は、こんなにも薄っぺらく、寒々しいものに感じられる。 「なにがです?」 首を傾げながら、いつも持ち歩いている、竪琴を悪戯にポロンと爪弾く。もはやその楽器だけが、レイムをレイムたらしめているように思える。それほどに、見た目には分からずともこの男は変質している。 「なにもかもがめちゃくちゃだ。それもすべて、お前の考えたことなのか?」 真剣に眼差しを注ぐ彼に、レイムは困ったような微苦笑を浮かべる。 「困りましたねえ…ご自分の有利にいかないからと言って、それを私のせいにされても。」 そうだ、言っていることはいつも正論染みていて、しかしいつだって、そこに真摯さは見て取れなかった。だからこんなにも、どこにも響かない。 「答えろレイム。私にはお前を議員に紹介してしまった責任がある。」 「後悔先に立たずと言いますよ。」 「…認めるのか?」 「なにを?」 屈強な軍人の――― 一国を代表する将軍の、覇気をまともに浴びてなお、レイムの飄々とした態度は崩れない。それどころか、なんとしたことか、彼の方が、ともすれば気押されそうになっていることに愕然とする。 この男は一体なんなのだ。 初めて彼の背中に、冷たい汗が伝った。 いかにも非力な、痩身の、楽器ばかり扱ってきた男だ。いくら召喚術を使えるとはいえ、詠唱が終わる前にその首を胴体から切り離してしまえばいいのだ。彼には太刀の一閃で、そうするだけの力と強さがある、そのはずだ。ほんの数歩しか離れていないはずなのに、レディウスには、レイムまでの距離が果てしなく遠く感じられる。 議会の講堂。円形に波紋の如く連なった椅子に、座る者はない。レディウスとレイム、二人しかいない。 静かだ。 もともと厳粛さを重んじる国であった。しかしこれは、静かというどころではない。なにも聴こえない。今も城には多くの人間たちが働き、生活しているはずなのだ。なのにこれは、どうしたことだ。冷たい石造りの城は、それこそ墓場のように、沈黙している。そうしてその沈黙ばかりが饒舌だ。異常だ、異常だ、異常だよ―――そう痛いほどに静寂が耳に囁きかけてくるように、レディウスには感じられる。 耳が痛くなるような静寂の中で、微笑み続ける男に向かって、彼は剣を抜いた。 しゅらんしゅるらんという刃と鞘の擦れる音。 指の先が冷たい。 彼は初めて、自らが何かに恐怖しているのだと気がつく。 「…さすがは鷹翼将軍です。人の身でこの魔力の前に立ち、あまつさえ戦意を失わない。」 パチ、パチ、パチ、とお情けのような拍手。張り付けたような男の微笑。 「どういうことだ?」 「説明が必要ですか?いいえ、必要ありませんとも。」 にっこりと、見るものがぞっとするような、凄惨な微笑。 「すぐお亡くなりになる方に、説明するなんて時間がもったいないでしょう。」 斜め後ろから、突然振り下ろされた一撃を、彼はほとんど反射だけで受けた。何もない虚空から、化け物めいた禍禍しい爪が、突き出している。 「なっ…!?」 召喚術を唱えた気配など欠片もなかった。 なぜ、と思う前に、どこからか矢が飛んでくる。それは、確かに自分の部隊の――――。 ヒュッと風を切る重たい音。 「レイム!!!!!」 大きく剣を振りかぶったその時にすら、男は笑った。 さようなら、とその口が動いた。 |