誰かが母親の世話をしている。
 そのことにルヴァイドはある時からもちろん気づいていたが、何も言わなかった。母も何も言わなかったのだし、彼にはそれが誰かも見当がついていた。しかしそれを口に出して確定してしまっては、きっと黙って見過ごすことができなくなることも知っていた。
 初めてそのことに気がついたのは、父親が死んでから半月が経ち、やっと半日の休みを貰えた時のことだ。

 軍に入隊できる齢を迎え、期待に胸を膨らませ、もちろん周囲からの期待を一身に受けて訓練に励み始めた将軍の息子の安寧な日々は瞬く間に崩れた。父将軍は国家に反逆した咎により、その場で現行犯として処刑された―――らしい。
 らしいというのはもちろん彼がそれを信じたくないからで、しかしどうしようもない公然の事実であった。
 デグレアの一国を担う将軍として、すぐ城の傍らに居を与えられていた彼らは、可及的速やかに城を追われた。家財も地位も名誉も、みな失った。病気の母と、それでも忠義者であった数人の古くからの使用人と。それ以外の多くの者はその一家から離れていった。母の生家ですら、あからさまに娘を切り離した。
 そういう国だった。

 新兵の訓練が行われるデグレア城から、母親の新しい住まいである国の外れは、どれだけ急いでも数刻かかった。
 反逆者の息子として、共に処断されてもおかしくなかった彼ら一族であるが、父親自身の過去の業績により命を繋ぐこととなった―――しかしながら本来除隊、あるいは雑兵へ降格されることこそ当然であったろうルヴァイドは、新しく議会の代理人となった召喚師の進言で、未だ軍人の子弟たちが多く籍を置く騎士見習いの位置にいた。それは彼の能力がやはりずば抜けていたからでもあっただろうし、しかしやはりその男の一言がすべてでもあった。
「お父上にはかつて大変お世話になりましたから。」
 今の私があるのもレディウス殿のおかげです、と、以前と変わらず微笑んで見せるかつての吟遊詩人が、しかしやはりすっかり変質して、もはや別人の域であることに、彼も気がついていた。金とは、地位とは、あんなにもうつくしかった心根の持ち主ですら変えてしまうのかと、彼は漠然と思った。
 反逆者の息子という烙印が、彼を常に精神的にも肉体的にも蝕んだ。公然とルヴァイドに、無理な訓練や嘲りの言葉、惜しむことのない侮蔑、身体的な暴力などが降りかかった。
 こんなものか、と思った。
 父のいなくなった城は、こんなにも冷たかったのだ。

 1年とも思える半月が過ぎて、ようやくもらえた半日の休みに彼は足を懸命に郊外へ動かしていた。デグレアは浅い春の盛り。わずかに道が、ぬかるんでいる。常ならばのんびりと、控えめな新緑に目を細めて歩いたろう道を、彼はわき目も振らずに歩いている。
 母は体が丈夫ではない。気心の知れた使用人がわずかばかり残ってくれたことがせめてもの救いであったが、彼らとて生きるためには新たな職につかねばなるまい。必ず日に一度は、交代でご加減を窺いに参りますと、そうしてくれた約束があっても、やはり心配だった。貴族の生れである母親には、今まで想像したこともないような暮らしに違いない。わずかながらに軍で支給されるすべての給金を送ってはいるが、それが一体どれだけの足しになると言うだろう。餓えてはいないか、凍えてはいないか――――。
『ルヴァイド、』
 父を見た最後の日だ。
『母上を頼むぞ。』
 いつも出がけに、父が言ういつもの言葉。しかしそれは、決していつもと同じではなかったのだと、彼は今になって思い知っている最中。いまさら知ったところでなんになろうか。ようやく見えてきた貧相な東屋に、彼は思考を中断する。一度物思いに沈んでいた頭を振って、瞬きを繰り返す。少しはましな顔に見えるだろうか。せめて母には、これ以上の心配をかけたくないと、これっぽっちの足しにもならない、けれどそれだけは譲れなかった彼の最後の誇り。

「母上、」

 ただいま帰りましたと押し開けた扉の中が、予想したより明るいことに彼は最初茫然とした。ひとつしかない部屋のベッドに横たわって上半身だけ起こしていた母親が、まあ、と依然と変わらず、おっとりと微笑む。
「おかえりなさいルヴァイド。」
 肩には質素ながらあたたかそうなショール。暖炉には火が燃えている。掃除は行き届いて、シーツも清潔そうだった。木で設えた粗末な机の上には、パンと果物の入った籠がある。小さく貧しいながらも、あたたかい家庭の風景がそこにあった。
 彼はうっかり、どうしてかそれに泣きたくなるような気がする。
 しかし彼は泣かなかった。ただもう一度、ただいまを繰り返した。それに笑みを深めた母親が、起きあがろうとする。それを手で制しながら、彼はちょうどベッドの傍らに置いてあった椅子に腰かけた。まだほんのりと温かい。
「フィンセントが来ていたのですか?」
 彼は一番古株の、信用のおける使用人の名前を口にした。入れ違いになったのだろうか。それに母親は、子供がするように悪戯っぽく微笑する。
「…いいえ。」
「では誰が?」
「ルヴァイド、お腹がすいたでしょう?私は先ほどいただいたばかりです。パンを召し上がりなさい。」
 まあ、少し痩せたかしら、と母親の細い手のひらが彼の頬に触れて、そのあたたかさに彼はやはり子供のように安堵する。優しい笑顔は、言う気がないということが見てわかる。彼は少し首を傾げてから、「ではいただきます。」 とかすかにわらった。父親が死んでから、少なくとも彼自身は初めてわらったと思った。母親から見たらその表情は、ほんの少し口端が持ち上がっただけのかすかな変化だったけれど、それでもやはり彼女にも、それが息子なりの今精一杯の微笑だとわかったからなにも言わなかった。
 立ち上がって机の前に椅子ごと移動すると、パンに果物、気づかなかったが小さなワインの瓶もある。
 兵舎の食事より豪華だなと彼は内心苦笑した。もちろん母親にそんなことは言えないし、本来兵舎の食事はそんなものではない。
「今日はどれだけいられるのです?」
「いただけた休みは半日なので、もうすぐに帰らなくては。」
 まあ、と残念そうに、母親が溜息を吐く。
「ではしっかり、食べて帰るのですよルヴァイド。」
「私は母上が暮らしに困っていることがないか聞いて帰りたいのですが。」
「そんなことはひとつもありません…強いて言うなら、部屋の反対側の隅が雨漏りしています。それくらいです。…ここは小さくて狭いけれど、とても居心地の良い家です。」
 ほんとうですよ、と穏やかに微笑む顔は、その台詞にびっくりして振り返った彼には本物に見えた。肩にかけられたショールを、いとおしげな指先で撫ぜる姿は、邸にいたころとちっとも変らない。
 やっぱり少し泣きそうになって、彼はワインの瓶を手に取る。
「…?」
 見覚えがあった。
 城で管理されている、一般兵用の糧食のひとつだ。嫌と言うほど運ばされたので覚えていたが――― 一般人の手に入るものではない。
 なぜここにある?
 訝しげに、視線を上げたルヴァイドの目に、ふいにやわらかな色が映った。
 窓辺にやさしい黄色の花。
 彼はもう一度、きれいに片づけられた部屋を見、暖炉で燃える火とその傍らに積まれた細く不ぞろいな薪を見、手元のワイン、それからまた小さな花に目を移す。
 母親はそれを黙って微笑しながら見ていた。
 だから彼は心にある名前が浮かんだけれど、何も言わなかった。
 椅子はまだあたたかい。先ほどまでいたのだろうか。
 やわらかな黒髪が思い浮かぶ。
 銀の髪は変わった。では少女は?
 彼の傷口はまだその答えに触れるには真新し過ぎる。

 それからというもの、ずっと彼が帰る度、部屋は清潔に整えられて、机の上には食べ物、暖炉に火。窓辺に花。それを素直に受け取れず、沈黙している自分を彼は時折、恥じ、それでもなお消化しきれぬ苛々とするような暗い思いも消しきれなかった。
 だから彼は、未だ沈黙している。もう終わりの始まりから、三年が経った―――百年も経ったような気が、彼にはしている。彼の体はほとんど大人のものになって、最近では力と技で敵うものは少なくなった。まだ強くなるだろうと、彼は客観的にそう思っている。
 ときおり黒い髪を、城内で遠くから見かけた。
 まだうたをとりもどしていないのだろうか。
 雪上に華奢な足跡。もう何度もそれを見つけて、それでなおやはり彼の口は開かない。
 ただいつも花は静かにわらっている。



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