レイムと音のない唇でそう名前を呼んで、震える少女の口端が、わずかにほほえむ。
 白い手がレイムの頬に添えられて、そこからもかすかな震えが伝わってくる。皮膚の表面はヒヤリと冷たいが、その下で熱い血がドクドクと絶望を堪えてのたうっている。
 レイムと呼ばれた"モノ" はその瞬間がたまらなく好きだった。
 泣き出すのをこらえて見開かれた目と、睫の先に溜まったひかり。透けるような白い頬をして、それでも諦められないというように冷たい自らの頬に手を伸ばすときのこの少女の微笑が。
 彼女は美しい。真冬の園に立つ幼い少女の面影を残したまま、雪の花が開くようにうつくしく育った。その成長の過程も、それはすべて識っていた。
 忘れてしまった?と、ちいさく戦慄く口端で少女が尋ねる出来事もすべて。

『レイム、忘れてしまった?』
 震える指先で、レイムの手のひらに文字をなぞる様が、たまらなく滑稽で、美しかった。
 答えもすべて知っているくせに、少女は何度となく尋ねる。
 哀れで愚かでなんとかあいらしいのだろうとそれは思う。少女の見せる"レイム"への思慕―――執着と言ってもなんら差し支えあるまい、それが愚かしく、好ましかった。それがこの肉体を纏っている限り、少女はまだ幼い子供であった頃から、何度も何度も飽きることなく繰り返し絶望を繰り返した。録音した昔の声を巻き戻し巻き戻し聴くように、それは繰り返し繰り返しの絶望する様を堪能した。
 不思議と飽きることはない。
 これからもずっと、少女が大人になっても、その甘美な絶望は深さと香りとを増し、それを楽しませるに違いなかった。
「なんのことです?」
 にっこりと、それが "レイム" を真似て表情を浮かべる。
 少女の眉が苦しげに下がる。ちがう、と囁きかけたくちびるを押し留めて、少女はなおレイムの顔を見つめ続ける。

『ほしのない夜のこと、』

 祈るような、囁くような、音のない少女の声。
 星のない夜、異界の巨きな月の下で、銀の髪をした吟遊詩人の青年と小さな小さな異界の子が、並んで空を眺めた。虫が鳴いていた。銀の竪琴が星のない夜に光の粒を撒き散らし、少女の喉が鈴のように歌った。草原は青く、空は紺碧の闇。どこかで水の流れる音がした。少女の髪はそれらすべてをあわせたよりも黒く、青年の髪は月の光を束ねたより白かった。それはなんの歌ですと彼の方が訊ね、幼い少女が子守歌だと不思議な微笑で答えた。
 ふたりのまわりに蛍のように光が舞って、それはきれいな風景だった。
 これはなに?と夢見るように少女。
 マナ―――この世界に満ちる魔力ですよ、と囁くように青年。
 少女の目のなかにも青年の目のなかにも星があった。
 在りし日のあまりに美しい残像。
 何度何度も繰り返しても、この娘はみとめようとしない。否、あきらめようとしないのだ。
 もはやレイムはあの日の月より影より夢より遠く、自らがかつて住んだ世界よりも遥かに遠くなったこと。
 そうしてその事実を突きつけられては絶望し、それでもどこかに "レイム" が欠片でも残されてはいないものかと必死に目を凝らしている。
 こんな雪深い静かな夜には、は必ず不安に耐えきれなくなるように、レイムに何度も何度も昔のことを尋ねる。そうして昔話に相槌を打ってもらって、変わらぬ安心を与えて欲しいのに、少女は実際、不安になるばかりだ。
 手のひらの上に羅列されてゆく、少し震える文字がいとおしい。
 おそろいのローブ、嵐の晩、野宿、盗賊の根城、金の髪の傭兵――――。
 覚えているかと、その眼差しが揺らぐ。
「もちろん、」
 この世で一等優しい顔と声で、それはそう答える。
 もちろんそれは、全て "観て" 、 "識って" いる。

「もちろん覚えていますよ。」

 それに少女は、音もなく声もなく顔を青ざめさせて、その手をおろす。
 縋るような光がその目から消え、女は静かに静かにぜつぼうをする。わななく口端が泣き出す寸前の熱い息を吐き、しかし決して彼女は泣かない。泣くまいと噛みしめられたくちびるを見る度、"それ" は震えるような愉悦を覚えた。
 その目のなかの光がきえる瞬間。
 それは血を得ることにも勝る快楽だった。ひとの心がパリンとはかなく壊れる様を目の前で眺めること、とくにこの娘のものは何度だって飽きない。
 少女が花のような手のひらで顔を覆う。
 わかりきっていたことでしょうに。
 嘲笑うような口調で、しかしそれの眼差しはたまらなく優しい。かわいらしくって愉しくって仕方がないから。ああ、もっと、ずっと、なんどだって。巻き戻しては擦り切れても眺めたい。隠しきれない恍惚を滲ませた男の口端に、少女はいやいやと首を振る。
「レイムですよ、」
 違う、と首を振る。
 声のない悲鳴はこんなにも耳に心地よい。
「なにを仰るんです?」
『おねがい、もとに もどって。』

 ほとんど壊れかけて、少女がレイムの肩を掴む。そうして掴んだ先の冷たさにぞっとしながらも、彼女は手を離すことができない。青年が青年のまま、時を止めていることに気づいているくせに、どうすることもできずにいる。
 どうぞもっとなんどでもレイムのためにぜつぼうしてくれと、それは渇望してすらいるのだ。少女の絶望は甘露よりなお甘く、神々の供物よりもことさらに甘い。

 そうしていつか。

 レイムがぞっとするような美しい、凄惨な微笑する。
「今日はどうしたんです?だいじょうぶ、子守唄でも歌ってさしあげましょうか…いえ、私の歌では眠れませんね。では一曲、なにがいいですか?」
 ポロン、とレイムと同じ仕草で、それは竪琴を鳴らした。最高に楽しかった。
 少女は泣くこともできずに、胸を掻き毟る。

 いつかそのみをなげだして、のぞみもたえてしんでくれ。




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