―――どうぞくるしまないでね。すべてかわいいこどもたちへ。 という少女が、議会の代理執行人だか顧問召喚師だか知らないが、慇懃な様子で無理難題ばかり吹っ掛けてくるかの銀髪の麗人の養い子であることは、ほぼ城に勤める兵士全てが知っていたから、やはりその日、が血相を変えて訓練場に飛び込んできた時も、彼女は歓迎されなかった。 ここ数年の、兵士を数としてしか捉えぬ議会の軍の動かし方は、国に忠誠を誓った軍人ばかりの社会であっても、すこぶる評判が悪い。その不満が表に噴出してこないだけ、この国の統制がそれだけ厳しいことを示している。それらの決定を下すのは元老院議会であり、決してそのレイムという召喚師ではないのだが、いつも議会からの命令を携えてやってくるその男は、もはや一種疫病神じみて兵たちの目には映る。 あなたたち、議会が決めたことですのでちょっと死んで来て下さい。 そんなことを笑顔でのたまいそうな、うそ寒い雰囲気をその男は持ってもいた。 めったに兵たちの前に姿を見せないその養い子であるが、やはり兵たちは、その少女を快く思ってはいない。あの男が孤児を拾って育っているなどという善行を行うこと自体、信じられないというものもいるし、少女は美しかったので、下世話な推察をするものもいた。 そのが、必死の形相で訓練場に入り込もうとしている。 それを屈強な軍人二人に阻まれながら、それでも彼女は懸命に声を発さない咽喉を絞ろうとしていた。確かに尋常な様子ではないが、ここはそもそも、一般兵の修練場ではない。黒の旅団、そうとも呼ばれる特務騎士団の、稽古場である。騎士団でありながら、もっとも過酷でもっとも名誉ない、仕事ばかりが回ってくるところ。栄光なき騎士たちの墓場。今はこの国で失われた、最後の誇りを持つものたちの流れ着く場所。 剣を打ちあい、斧を奮う、軍人たちが武芸に励む熱気が常ならば満ちているのだが、入口近くで起きた小さな騒ぎに、だんだんと手を止めて訝しげに眺める者が増えてきた。 「困りますな。この先は投具での訓練も行っていますから危険なのです。」 「…!!」 「用がおありなら、きちんと声に出していただくか、書状をしたためるなりしていただかないと。」 言葉づかいこそ丁寧であるが悪意が滲んだ。彼女が口をきけないことを、知らない人間などいない。話を聞いてくれと、その眼差しが切に訴えている。しかしその口から音は出ないのだ。 それでもなお、無理にでも通り抜けようとするか細い少女の腕を、鍛え上げた男が掴んだ。少女が声にならない悲鳴を上げる。幾ら好ましく思っていなくとも、痛めつけるのは本意ではない。ふたりの男は困ったように顔を見合わせて、若干声音を困ったように荒立たせた。 「いくら顧問召喚師殿の養い子とはいえ、許可のないものの立ち入りは禁じられているのだ!」 養い親の権力をかさにきた無理が通ると思うな、と言外に強く窘めるも、少女は譲らない。違うのだ、と首を振って、目が泣きだしそうだ。しかし瞳は強い力を持って、決して涙をこぼしたりはしなかった。 だんだんと兵が集まってくる。 「おい、どうしたんだ、なんと言ってる。」 「お嬢ちゃん、ここにゃああんたの欲しいものなんてありゃしないよ。」 「おい、誰か書くものを―――、」 「どうした騒々しい!」 低いざわめきの中を、抜けて通るような重く深い声音だった。たいして大きな声でもなかったが、その声に打たれたように、辺りが静まり返る。 「隊長!」 一部は助かった、と、一部は手を煩わせてすみません、と声を上げた。それらの声にこたえず、彼は腕を掴みあげられたままの少女を目を丸くして凝視している。 彼を良く知る数名は思った。珍しい。彼らの敬愛する若き隊長の表情は、常日ごろからあまり動くことがない。 ルヴァイドとの、暗い緋色の目と黒の目が合う。 「。」 名を呼ばれて初めてが右目からボロリと涙をこぼした。 それに腕を掴んでいた男が、ぎょっとして手を離す。グラリとそのまま倒れた娘の腕には、くっきりと赤黒く、手の痕がついている。 「、どうした。」 数年ぶりに、面と向かって呼ばれた名だった。 ぶるりと大きく肩を戦慄かせた後で、がルヴァイドの手を取る。細い指先で綴られる、切れ切れの、荒々しすぎる文字。 母、様態、悪、急ぐ。 はっと顔を上げてルヴァイドがを見る。必死な様子、叫ぶような眼差し。叫んでいる。そうだ、彼は知っていた―――もうずいぶん母親の具合がよくないこと、五年近く毎日のようにこの娘が彼の母親の世話をしていたこと。 ―――養い親があれだからなんだ。 彼はグイとそのままを肩に担ぎ上げた。 「すまないが誰か馬を!!」 隊長と驚きの声が上がる。どよめきの中、彼がかすかに小さく眉を下げる。「…母が危篤だ。」 その言葉に一瞬辺りはしんとして、それから慌ただしく動き出す。 「ノルデ、すまない。この後の会議は…、」 「水くさいこと言いっこなしです隊長、適当になんとか」 頼もしい副官の言葉が、ふいに途切れる。 「大事な軍議を放り出しては、指揮官失格ですよ、ルヴァイド。」 冷然とした、歌うような節回し。場が凍る、とはまさにこのことだったろう。ゆっくり、ゆっくりとルヴァイドがその肩から、すとんとを下ろす。 「…レイム。」 なにやら訓練場が騒がしいので、来てみれば。 そう言ってかつての吟遊詩人が、ゆったりと微笑む。が色のない目で、凍りついたようにレイムを見ている。 |