「上官が私情で責務を投げ出すなど、軍であってはならないことです。」
 それは確かに、正しいことではあるのだろう。
 兵たちが抗議の声をあげるより早く、がさっと養い親に詰め寄る。

「おやさん、腕をどうしたのです。」
 ゾッとするような冷たい響きだった。周囲の温度がヒヤリと下がる。ルヴァイドは沈黙したままで、だけが首を大きく横に振りながらレイムの服に掴みかかっている。
「どうしたのか、と訊いているのです。…女性にずいぶんと手荒な真似をする不届き者が、この部隊にはいるのですね。」
 最後の方の響きは苛々とささくれ立って、荒い鑢のようにざらついていた。
 関係ないとが声にない声を上げて喚く。もはや彼女とレイムの他、動くものがない。何度も胸に向かって振り上げられるの小さな拳をやんわりと手のひらで受けながら、レイムがその音のない言葉に言い返す。
「ええ。ええ、わかっていますよ。レディウス将軍にも奥方にも、私たちは多大な恩がある。今際の際に息子に合わせて差し上げられない…母親の死に目に合わせて差し上げられないなんて、私だって辛いのです。」
 表情ばかり憂いを帯びて、しかし誰もが思わず嘘だと叫びたくなるような響き。
 声もなくが嘘と叫んだのが誰の耳にも聞こえた気がする。音はなくとも、は怒っている。体全体で、この空恐ろしいような気配を持った男に向かって。それは、彼女の庇護者であり、彼女の、家族であるはずの男だ。しかしその、烈火のような怒り方は、身内に対するそれとは違う。
 この、娘は、なんなのだ?
 だんだんと兵たちが、純粋な驚きを映してを見つめ出す。
「嘘だなんて、ひどいですね。奥方には一方ならぬ恩があるからこそ、私は心を鬼にして申し上げているのです。」
 ひたりと研ぎ澄ました刃をあてがうように、レイムが顔を上げ、ルヴァイドに向かって微笑む。

「あなたはこのデグレアに絶対の忠誠を誓った身…お母上のためにも、これ以上一族の名に泥を塗るような真似をしてよいのですか?」

 あなたが大切な軍議を投げ出して、その結果例えば懲戒や懲罰を受けて、それで母上は安心して輪廻の輪へ赴くことができるでしょうか。
 忠告のようで警告だ。親切なようでいて、それはただ、目の前のルヴァイドの心を痛めつけるためだけに発されたようにしか聴こえない。ルヴァイドは黙っている。
「今日の軍議は重要なものではないはずです!隊長がいなくとも…!」
「おや、大切な責務をその大小で量ってよいのですか?それで軍則というものが成り立つと?今が例えば重要な戦局であっても、あなたは大将の離脱を見とめられますか?」
 表面上はどこまでも正しいのに反発したくなるのは、その声音にまことの心がこもっていないようにしか聞こえないからだ。なにか言い募ろうとした副官を抑えて、ルヴァイドが前に出る。泣きたくなるほど静かだと、思ったのは誰だったろう。静かだ。せめてこの娘の口がきければ、泣いて喚いてくれただろうか。
「…ご忠告痛み入る。」
 がルヴァイドを振り返る。泣きっぱなしで腫れた目。どうしてお前がそんな顔をするんだ。ルヴァイドは場違いに微苦笑を浮かべる。
 そうだ、昔、この少女が泣くとずいぶん彼は心配して―――。
「隊長!」
「いいのだ…上官が規律を乱すような真似は出来ぬ。」
 ご立派ですねとレイムが微笑む。ルヴァイドが目に見えぬ傷口から真っ赤な血を流していることを知りながら、まるで慈悲深い僧侶のように、優しく。
「いえいえ。お辛いでしょうがこれも一族の名誉のため、」
 ルヴァイドがもう、再び馬を出せと言わないことが、誰にでもわかった。彼はここに留まり、退屈な軍議に出席する。そしてその後は、通常通りに、書類の作成だとか、訓練の監督だとか、そういったこまごまとした雑務を、淡々とこなしてゆくのだ。自らの保身のために、死にかけた母親に会いにいくこともしない、冷たい男だと人は言うだろうか?その人は知らないのだ。今痛いほどの無表情で、白くなった拳を握りしめている男のことなぞ、ひとつも知りやしないのだ。
「今は耐えることも大切で」
 スパァン、とそれは良い音がした。
 今度こそその場の誰もが、レイムですらはり倒された頬を押さえ、驚愕の目でを見る。

「…、さん?」
 肩で大きく息をしながら、がレイムを睨みつけていた。赤く腫れた目玉は、爛々と、燃えるように養い親を貫いている。自らの存在すべてをつるぎのようにして、少女がそこに立っていた。
 きょとんとレイムはを見上げている。それは本当にあどけない子供のような仕草で、ちょうど親にしかられた理由も、叱られたのだということすら理解できない様子で、それ故にぽつんと孤独だった。なぜ自分が怒られたの?理不尽な扱いに悲しむ子供の顔。
 その邪気のなさに、また男たちはぞっとする。この男は、自らの言葉がどんなにか鋭くルヴァイドをばらばらにしたのか、きっと自覚しないのだ。知っていてもなお、それを罪悪ともなんとも、感じぬのに違いない。
 の口が、何度か喚くように動く。
 それを見、傷ついたように首を傾げるレイムはその存在自体が世界から浮いているようだった。その薄紫の瞳に浮かぶ、どうしてこんな風に責められなくてはいけないの、と無邪気な悲しみに満ちた問いかけ。
 これは子供だ。世界でもっとも残酷な。
 が叫ぶ。声もなく、音もなく。




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