ルヴァイドの母親が亡くなってからから変わった事の一つは、彼と少女の関係が再び穏やかな円を構成するようになったことだったろう。、とためらいなく、ルヴァイドは少女を呼ぶようになったし、もまた、その呼びかけに対してまっすぐ顔を上げて応えるようになった。後ろめたいことなど、なにもないのだ。父親の罪が、彼の罪ではないように、養い親の底意地の悪さは、彼女の不徳の致すところではないのだから。 ベッドの下に大事そうに束ねられていたと母親の"お喋り" を彼は読んで少し泣くようにした。それに彼女は、『女の子の秘密のお喋りを読むなんて!』 と文字に書いて笑った。 不思議に穏やかな円が、戻ってきている。 それから一年の月日を経て、円はよりまるく、やわらかくなった。 彼女の周りに、小さな円が増える。水の上に広がる波紋のように。 は墓に花を絶やさない。かつてその小さな家の窓に、花を絶やすことのなかったように。 同時に大勢の兵の前でレイムをひっぱたいてはり倒し、そのまま一目散に街外れに向かって駈け去ってしまった少女に対する視線は、変わりつつあった。 レイムの養い子としてしか認識されていなかった少女は、"" というひとりの人格として、認識され始めたのだ。 「おはよう、殿。」 ぺこんとそれに応えてが頭を下げる。 「こないだの手はもう痛くないかい。」 そんな風に親しみの籠ったからかいを向けるものもある。もまた、それを楽しそうに享受していた。話しかけられる機会の増えた彼女は、紙とペンを持って歩くようになった。手のひらに書くより正確に相手に意思を伝えられる。紙に書かれた言葉に相槌を打ったり笑ったりする兵たちと。それを見る度ルヴァイドは、本来彼女が明るく闊達な少女であったことを思い出す。 なにが彼女から明るさと健やかさと笑顔と声を奪ったろう。 すべての答えはひとりの男に帰結する。変わってしまった、ある一人の男。 「…さん。」 お迎えだ、と誰かが小さく囁く。 にひっぱたかれて以来、レイムのに対する過保護さ―――むしろ執着に近い、が格段に増したような気がする。常に傍らに置いていなくては不安だとでも言うように、が一時も自らの側を離れると彼はこうして探しに来る。 「訓練の邪魔をしてはなりませんよ。」 「いえ、殿と話すのはちょうどよい気分転換です。」 「今はちょうど休憩中でしたし、構いませんよ。」 「顧問召喚師殿こそ、お仕事はどうされたのです。」 ご心配なく、と機械的に微笑するレイムの頬は、日影には透けるように白い。を見る横顔は苛立っているようにも見受けられるし、どこかおそれているようにも見える。神経質さを増したようなその眼差しの前に晒されると、やはりは一瞬、戸惑うような恐れるような、頼りない表情を見せる。 しかしそれも、一瞬のことだ。 なあに、と夜色の双眸が、まっすぐに彼を見上げる。 すると今度はレイムの方が、そのまっすぐさに戸惑うような色を見せるのだ。もちろんそれも、ほんの一瞬、そんな気がする程度のことではあったのだが。 「さあ、さん。」 どこへ、と彼女が首を傾げる。 色のないレイムの横顔が苛立つ。ザワリと冷たい空気。兵の一人が気を利かせて、「そろそろ訓練に戻るか。」 と苦笑気味に呟く。 「じゃあまた、殿。」 「レイム殿、この年頃の女の子は繊細ですからね…うちの娘もこれくらいのときは大変でした。」 「…ご忠告、感謝いたしますよ。」 苦虫をかみつぶすように、それでも美しくレイムが微笑む。 またね、と兵たちに手を振っていたが、その顔から微笑を消して、レイムを振り返った。まっすぐな眼差しだ。そこにかつてみられた、怯えや悲しみ、恐怖は見受けられない。そのことにレイムの神経が、酷く苛立つ。 「…あまり兵たちと交わるものではありません。」 なぜ、と静かに少女が見上げる。じき身体的に17になる少女の背は、随分と伸びた。精神の年齢に、肉体が追いついてきている。彼女の肉体と精神が、再びひとつに、揺るぎなく結合しようとしている。そうして彼女は最近、内側からかがやくような、ひかりをはっするようになった。 それがレイムには、苛立たしい。 なぜこの "レイム" のために、嘆いて、叫んで、悲しみ、憎んで、絶望してくれない? 「………あなたは私のものでしょう。」 小さく小さく、ほんのひとりごとだ。 苦々しく吐きだされたひとことに、が文字を書く。レイムの手のひらは冷たく、そこに文字を落とす少女の横顔は戦乙女にも似ていた。 『私は私だけのもので、かつてあったレイムのもの。』 さやさやと梢が鳴る。デグレアの短い春が終わる。 『あなたはだれ。』 |