「騎士様、」
そう言って目の前に、一輪の花が差し出された時も、やはり彼はぼんやりしたままだったので、花を手にした娘は「わっ!」と一度大きな声を出さなくてはならなかった。
「わっ!」
「うわっ!?」
やっと反応を示した男の目に、最初に移ったのは真っ白な花。知っていることといえば剣のことばかりの彼にはとんと名前が知れないが、明るい真昼のひかりの下で、それは彼が二重に驚いてしまうほどには明るくて。
さらには花を差し出している娘に、彼は三重に驚かされた。
男の鼻先に、娘は賢そうな大きな目を開いて、真っ白な花を差し出している。
その意味がわからず、騎士は目をパチクリさせた。
なんだか久しぶりに瞬きをした気がする。
涙も枯れ果てて久しい目玉が、ずいぶんと乾いて、瞬きするたびにシバシバと痛むことに、彼は初めて気だ着いた。
情けない顔をしているに違いない。
しかしまだ彼の頭はぼんやりと灰色にかすんでいて、ともすれば再び思考の渦の中へ沈みそうになる。だのにそれを阻むように、花がきらきらと美しく光るものだから、彼は何とも言えずうっすらと、残酷な気分になった。
頼むからそんな美しい様でいてくれるな。
騎士は"ぜつぼう"していた。
とてもとても心が疲れ果ててしまって、希望はなくもはや望みは絶たれ、真黒な星もない海の上、何も見えず何も聞こえず、あてどない船の上にいる。
「騎士さま、」
娘の不安げな声が、ふと夜の海に届いて騎士は再びその暗い瞳をあげた。
もちろんのこと、辺りは明るい光の中、うららかの午後の街角である。
娘を見、それからすぐ目の前の花を見て、彼は眉をしかめたまま、首を傾げた。花売りの押し売りだろうか。それならばもっと、景気のよい顔をしているものを狙えばいいものを。
いかな時にも女子供老人のみならずあらゆる民草に優しくあろうと努めた彼であっても、今この疲弊しきった絶望の中では、その常の動作ですらひどく億劫なものに感じざるを得ない。
それでも彼は、わずか微笑しようとして、失敗した。
くたびれた寂しい微苦笑が、ぎこちなく口端をもちあげただけだ。その痛ましさに、娘が美しい眉を寄せた。そこで彼は初めてハッとする。
「お花、」
「え、」
娘のそれこそ、花のようなくちびるが動いた。思わず彼はうろたえて、すこし身を引く。ずいぶんと近い。
「プレゼントです。」
「え、」
「差し上げます。」
そうして娘は、にっこりと笑った。
…お花みたいだ。
働かない頭で騎士は思った。花を差し出してきたのは、まっしろなとても優しい人だった。
「え?」
いまさらながらに、顔が赤くなる。
急に現実に、思考が戻ってくる。
どんどんどんどん暗く深い淵へ潜ってこのまま魚になれるように思っていたのに、急に目の前に花が咲いて、びっくりして水面へ出たら、うつくしい人の顔がすぐ目の前にあった。例えるならそんなかんじだろうか。
街外れの橋の上、彼はもうずいぶんと長いことここにじっとしていたらしい。
橋を渡り終わってすぐ正面を、娘が指さす。白く細い指だった。
「…花屋?」
やはり花を買え、ということだろうか。
騎士はもう一度いぶかしげに娘を振り返って、彼女は眉を下げて微笑む。困ったようなはにかんだ笑い方で、少し傾けられた首が細い。
「今朝花の仕入れに出た時、騎士様がふらふらと公園を歩くのをお見かけしました。」
その目がまっすぐに彼を見る。
「それから朝ごはんを食べて、配達に行く時、また騎士様を今度は住宅街で見ました。…配達を終えて帰るときには、騎士様はちょうど住宅街を出て、どこかへ向かわれるようでした。」
娘の言わんとすることが、だんだん彼にも分かってきた。
先ほどとは違う意味合いで、顔が熱くなるのがわかる。噫、私は―――。
「昼前に騎士様は真っ白なお顔で店の前を通り過ぎて、」
「…。」
「午後の配達の時、王城の前でお見かけしました。やはり心ここに非ず、といった感じで、なんだか倒れそうに見受けられました。」
「……、」
心持すまなそうに娘が言うから、いたたまれない。耳まで赤いのではないだろうか、自分は。彼は口をぎゅっと結んだ。恥ずかしいのだ。
「それで三時を回ってからもう三べんもこの橋を渡られて、」
「…はい、」
そう言えばずいぶん歩いた気がする。意識した途端に、足が石化するような疲労を感じた。背中が重い。
「そうして先ほどから、ずいぶん長い間橋の上で水面を見つめておられます。」
「…はい―――。」
情けない。
絶望の嵩が、ゆっくり潮が引くように浅くなった気がした。溺れていたはずが、今は太もものあたりにひたひたと黒い水が波打っているのを感じている。
そうして目の前には、白い御手を持つ娘。星の光をまぶしたような、白い小舟に乗っている。その肩にも光は積り、白い鳥のように見えた。
「…だからさしあげます。お花。」
真っ白な花だった。
花のような微笑だった。
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