立ち直る前も後も彼は忙しく、仲間たちとそれこそ聖王国中―――それどころか世界中を駆け回っていた。
 王との謁見議会への招集亡国の騎士としての務め。終わればすぐさま聖女らと共に王都を発ち、禁じられた森へ。そうして悪魔をこの目に見、戦い、封じられた機械遺跡。仲間の過去を知った。異界の守護者との遭遇、長い行軍と疲弊。立った数日で数年分のような濃密な時間を過ごし、そうして再び、王都へ帰ってきた。
 自国が落ちてからというもの、すべてがあまりにも目まぐるしく進行している。その忙しさに、しかし彼は時折、ありがたみを感じてしまう。戦い思考し、戦う間は考えずに済む。死んでしまったものたちのこと。たったひとり残ったこと。尊敬する男の最期のことば。
 ああ私はなんとしても果たさねばならぬ―――。
 心が空になると、そのことばかり考えている。

 だから彼の足がどこへ向かうのか、それは誰にもわからないことだった。まず彼自身、知るはずもない。
 ただ彼は考えに耽りながら――以前そうして王都を歩いた時のような悲壮さはない――ただ歩いていた。昔からの癖だ、考え事をすると勝手に足が前へ動く。

 だから彼がふいに顔をあげると、商店街の外れの小さな橋へさしかかるところだった。
 静かに水路が流れて、木々が青々としている。風が少し吹いた。
 心地よい風だ。
 騎士は少し目を細める。白い甲冑に緑の木漏れ日が落ちて、醒々緋のマントが揺れる。水面の緑が透明だ。
 ちらちらと流れゆく川の面を見つめ、ふいに彼は可視観に見回れた。いつかもこうして水面を眺めた――――いつ?
 はっと顔をあげる。
 彼が通り過ぎた川向こうに、白い壁の家。花が咲き乱れ―――当たり前だ、花屋なのだから。

 それを彼は認めて、もう一度はっとした。
 もうしおれてしまったが、かつて胸に咲いた花のこと、それをくれた美しい娘のことを思い出したのだ。
 緊迫した日々に、すっかり忘れていた。ここは時間が平和に流れている。
 彼は慌てて、辺りを見渡す。外に向かって開かれた店内に人影は見あたらず、少しほっとする。今顔を合わせればきっと赤くなる自信がある。ずいぶんと情けないところを名前も知らぬ娘に見られた。しかし同時に、救われたのもまた事実―――。
 ここまで考えて、生来気真面目な彼の頭は、こう考える。
 砦と部下を失い、尊敬する領主をその望みの通りに殺し、私は誓った。闘うことを。しかしそれでもなお私の心は深い絶望の淵にあった。それを彼女は掬い上げた。
 きっとそんな自覚はないだろう。ただあまりにも情けなくくたびれて、沈み込んだ騎士を見かけて、元気づけようと花をくれた。見ず知らずの人間を慰めようと哀れをたれた。
 迷惑だろうかと心細そうに寄せられた眉と、困ったような微笑。しかしその眼差しは、まっすぐにただ優しかった。

 礼をするべきだ。
 律儀な彼は思う。彼女にはそんなたいそうなことをしたつもりはないだろう。もしかしたら彼のことなど忘れてしまっているかもしれない。しかしそれでも、確かに彼はすくわれた。礼をするには十分な理由だ。

 そこまで考えて、しかし彼ははたと気づく。
 礼と言ってもなにをすれば良いのだろう。…困った。なにせ彼は、女性に贈り物などしたことがない。姉妹もおらずそもそも一人っ子だ、母は早くに亡くなった―――。
 はて、あの年頃の女性になにをもって礼とすればよいのだろう。
 そう言えばあの時、花を受け取ったあの時、私はきちんと礼を言わなかった気がする。とんだ失礼をしたものだ。いただいたのは真心だ、差し出されたのは花だった。花に対してあまり高価なものを送っても困らせるだろう。
 ああ、だが、しかし、どうすればいいのだ?

 頭を抱えそうになった彼に、言葉がかかった。

「………あの、」

 小さな声だった。
 はっとして彼が顔をあげると、娘が立っていた。手にはいっぱいの大きなバケツを抱えて、目を丸くして彼を覗き込んでいる。
 やはり困ったように、はにかむように、眉を片方さげていた。
「あ、」
 あの時の娘だ。柔らかい色の髪と瞳、白い肌。真っ青な街娘風のワンピースドレスを着ている。白いエプロン。しばらく二人とも言葉に詰まった。少し風が吹いて、梢が揺れる。
「ええと、」
 少し首を傾げて娘が微笑した。
「…また何かお悩みですか?」
 こういう微笑を知っている。自分のしていることが、お節介だと、余計な邪魔なことだと、"良い人"ぶった嫌な行為だと、煙たがられはしないだろうかと不安に思いながら、それでも声をかけずにはいられなかったのだという、少しばかりの気恥ずかしさの混じった、優しさのにじむ顔。
 自分のことを覚えていたのだ。
 顔が熱くなるのを彼は感じる。
 馬鹿だな、シャムロック。狼狽えるんじゃない。
 少し深呼吸をする。仲間にするように。そう、いつもの調子で。それでいい。
「…この間は花をありがとうございました。」
 柔らかい声が出た。いつもの調子。穏やかに頭を下げた騎士に、娘はあわてた。
「いいえ、そんな、もったいないです、騎士さま、」
 その様子はあの日それこそ彼の仲間の少女よりよほど聖女に見えたというのに、ただのそこらにいるかわいらしい娘に見える。
 彼は微笑する。もう大丈夫だ。
 さて、彼の友人曰わく、「こいつは一旦度胸を据えるとそりゃもう…強い。」

「いいえ。礼を言わせて下さい。私は確かにあなたに助けられたのだから。…ありがとう。」
 彼の榛色をした瞳が優しく撓むのを見て、娘もやっと、少し笑った。相変わらず眉は下がって、困ったけれどほっとしたような微笑。
「…どういたしまして。」
 あたたかい響きをした声だと彼は思った。
 では今日はどうされたのですか?その言葉に彼は眉を片方下げた。

「…実は、」

 ことりと首を傾げる娘が、バケツを抱え直す。
「持ちましょう、」
 はっとして彼が腕を伸ばすと、娘はあわてて首を振った。
「とんでもない!」
 しかしのばされた腕が手持ち無沙汰だ。彼にしては珍しい大胆さで、一抱えもある大きなバケツをさらってしまった。
「あ、」
「店に運べばよろしいですか?」
「騎士さま、止めてください!」
「迷惑でしょうか?」
「い、いいえ!」
「ではどうぞ運ばせて下さい。」
 彼はすたすたと歩き出す。娘は目をまん丸にしてしばらくその場に立っていたが、あわててその背の高い騎士を追って走り出した。