ようやく路地裏の騒々しさが収まって、もとの静けさが戻ってきた。
相変わらず少し離れたところでうつむくの耳は赤く、たぶん自分のものも同じくらいに赤いだろうとシャムロックは思った。
恋人?そんな馬鹿な。
花をもらって以来、まだ三度ほどしか会ったことがない。名前もこの間知ったばかりだ。年だって、家族だって知らない。知っているのは名前と花屋の娘だということ。それからとても優しいひとで、わらうと空気が透き通る。それだけ。
なのに恋人だって?そんな、ばかな。
困ったように赤くなってうつむいている人を見た。
さきほど明るい笑い声をあげていたことを思い出す。そんな表情、見たことがなかった。いつも困ったようにはにかんでいた。やっと礼を渡したあとで、花のような微笑みを見ただけだ。
花をもらった。それから良い名だと言ってくれた。その声で呼ばれると、とても心が穏やかな気持ちになると思う。同時にとても、鼓動がうるさい。
「あの…、…友人が、すみません。」
そう言って頭を下げる。
なんだか恥ずかしくて今すぐここから駈け去りたいようにもおもったが、そうするには彼は大人過ぎた。
その言葉に、がふるふると大きく首を横に振る。その目はじっと地面に注がれていて、シャムロックを見ない。少しさびしいような気がしたが、今その目をまっすぐ見ていられる自信がなかったので、それでいいような気もする。
「みな騒々しいですが、素晴らしい友人ばかりなんですよ…ええ、たまに、暴走するのが困ったものなんだが。」
そう言って苦笑すると、もちょっと笑ったようだ。
それにほっとして、シャムロックは首を傾げる。
「ではまた。お騒がせして申し訳なかった…今日は久しぶりに王都へ帰ってきたので、どうしているか少し気になったので立ち寄っただけだったのです。」
気にしないでくれ、と言外に告げて、そっと踵を返す。
もう訪れることはないかもしれないな、ふいにそんな言葉が胸のあたりを掠めてかすかに自嘲する。馬鹿だな、シャムロック。なんだか笑いたいような、気分。
「あの!」
声が飛んだ。
いつでもその声は、シャムロックを繋ぎとめる。
「次の戦にも行かれるのですか?」
エプロンをぎゅっと両手で握りしめたまま、まだは地面を見ていた。それに立ち止まった彼は、少し首をかたむけながら答える。
「はい。」
「悪魔との、戦、なのでしょう?とても、強い大悪魔で、とても…強いのだと聞きました。」
「…はい。」
その答えに、やはりは、握りしめる手の力を強めたようだ。エプロンのしわがきつくなったのが遠くからでもよく見える。
「ごぶじで、」
それはぽつりと小さな声で、シャムロックにはよく聞こえなかった。
え?と聞き返す前に、がキッと顔をあげる。その様子は、やはり仲間の女性たちが戦いの中で見せる凛々しい様に、似ているように思われて、シャムロックは目を見開く。
「どうぞご無事で!!」
大きな声が路地に響いた。
もちろんシャムロックにも、よく聞こえた。
「きっと無事に帰ってきてくださいね、」
噫この人はひょっとしたら、泣き出しそうなのかもしれない。思い当たって彼は愕然とした。見開かれた目は今にも泣きだすのをこらえるようだ。握りしめられた拳。胸があつくなる。
「…はい。」
熱くなった頬に気持ちのよい風が吹いた。
ああそうだ、ここはいつだって、緑に透き通った気持ちのよい風が吹いている。
「怪我しないでくださいね。」
それは難しいと思います、とは言わなかった。ただはいと言った。そうして彼の足が、一歩彼女に近づく。
「ご飯ちゃんと食べなきゃだめですよ。」
今頃邸の机をはみ出すほど大盛りにされた料理を連想する。そのほとんどは美味しいものなのに、やはりところどころに、食べれば召喚術に頼らねばならないような、個性的な味のものも含まれているのだろう。考えたらすこし笑えた。はい、とやはり頷いて、もう一歩。
「帰ってこなきゃだめです。」
「はい。」
「まだシャムロックさまは一度だってお花を買ってくださったことがないし、」
「…はい。」
「私はハンカチのお礼をしていないし、」
「あれはあなたにお礼として差し上げた、」
「お礼のお礼です!」
顔をぱっとあげてシャムロックの答えを遮ったが目を丸くした。思ったよりずいぶん、シャムロックが近くにいたので。
「…はい。」
彼が微笑む。榛色の目玉がやわらかくたわむ。風が髪に揺れている。赤いマント。
彼はゆっくり、彼女の緑の目を見下ろす。目の中に星があるとおもった。海もある。少し濡れている。
「帰ってくる?」
「もちろん。」
囁くような言葉になった。
「あなたはまだ私の名前、呼んでくれたこと、ないもの。」
花の名前はふいに吹いた強い風に隠れた。
だからふたりしか知らない。
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