二十七


「もしもし佳主馬?どーしたの?今日終業式だから早いんじゃなかったっけ?早く帰ってこないと、お素麺伸びちゃうわよ?」
 チリン、と風鈴が、狭いマンションのベランダに吹きこんでくる風で鳴った。机の上では女の子がそのお素麺を一生懸命に食べている。ああほら、こぼさないでよ、と声をかけながら、母親は受話器を耳に押し付けなおした。
「え?」
 母親の怪訝そうな声に、子供が顔を上げる。
「ちょっと、今から上田の家に行くって、どういうことなの!」
 チリンチリン、と風鈴の音。朝顔がベランダに三つ並んでいる。その向こうには入道雲。真っ青な空、広がる。
「お母さん今日夜勤だからって朝言ったでしょ?お金どーすんの。…は?ファイトマネー?佳主馬が二十歳になるまではだめだってあれほど、…え?」
「…お兄ちゃん、上田に行くの?」
 子供の問いかけには答えず、母親は真剣な表情で受話器の向こうに頷く。
 扇風機が回っている。冷蔵庫に張り付けられたままの、六月の文化祭のチラシ。一日目の公演の部分の文字だけ、手書きで修正して刷ってある。ヒッチャカメッチャカお笑いライブ、の文字には打ち消し線。『世界的ピアニストによる初夏の調べ!』
 夕飯の席で、息子が一度ぽつんと話したことが忘れられない。
「ねーえ、おかーさん!」
「…わかった。」
 風鈴の音。
 眠れない子、ご飯を食べていない子。
 あんなに上手にピアノを弾くのに。
 ―――いちばんいけない。栄ばあちゃんだったら、ぜったいそう言う。
 学校の話なんて、尋ねない限り息子はもうほとんど自分からはしない。

「いいわ。わかった。万里子おばさんにはこっちから連絡いれとくから、うん、うん、わかった?そう。」
 わたしも行く!という子供の声を、受話器の向こうの小さな、ありがと、が掻き消す。

「どういたしまして、…いってらっしゃい。」

 チリン。