三十 "ご飯を食べていない、眠れない"、というどうやらわけありの"友達"に、ご飯をたくさん用意して、できたら大勢で待っていてあげてほしい。 それが電話で伝えられてきたことのすべて。 「つまりどういうことよ?」 「だから最初に言っただろ。ごはんくださいって。」 「…は?じゃあなに!?あんた名古屋からわざわざ友達連れて上田に晩ご飯食べに来たってえの!?」 「そうだよ。」 直美と理香の互い違いでの質問攻めにも動じることなく、「なにか悪い?」と佳主馬は飄々としている。 佳主馬がもうそれ以上なにも言わないことが分かったのだろうか。困っていたり、不思議がっていたり、ちょこっと剣呑だったり、済まなそうだったり、心配そうだったり。いろんな色をした目が、に向く。 さっきまでのにぎやかさがどこかへ行ってしまって、少し不思議にしんとしていた。盛り下がる、ってこれか、となんだか呆れたように冗談のように考えると変に張っていた気が抜けて、は少し、ぽつ、ぽつと話し出す。 「ええと、あの、私、」 九対の目、佳主馬の目だけ、もくもくと前を向いたまま、ご飯を口に運んでいる。机に半分突っ伏したままだった翔太が、体を少し起こして、ごくりとビールを咽喉に流し込む。 「ピアノがすきなんです。小さい頃から、ずっと…ひいてて、すごく、たのしくて。曲をつくるのも、すきで。」 何の話よ、と言いかけた直美の口を、万作が塞ぐ。むぐ、と忌々しそうな顔。どこ吹く風だ、縁側からは、涼しい夜風が吹きこんでくる。 「うたうのも、ほんとはすきで、父がそれを、すごく褒めてくれて、研究につかってくれたりもして…、あ、父は研究者で、睡眠障害の研究をしてました。」 すいみんしょうが?―――うん、しずかにね。 小さな母子の小さな声。 「ずっと、…あの、りょうしんが亡くなってから、なんか、眠れなくて、それで、父は、特に不眠症を改善する研究を、してたんですけど、薬とか診察ではなく、眠る前の環境を最善に整えることで、自発的に睡眠へ促すっていう。あ、ややこしいですね、そういうOZでだれもが使えるプログラムを開発しようとしていて、ええと、亡くなる前に、そのプログラムの権限をぜんぶくれて、あの、」 何を初対面の人たちにべらべらしゃべっているのだろうとは思った。思ったけれど、口が止まらない。 「わたし、みんなにねむってもらわなくちゃいけないんです。」 どこかで風鈴が鳴ってる。 「みんながよく、眠れるように、プログラムのメンテもしないといけないし、」 ひとりになってもやるべきことはたくさんあった。日々は目まぐるしかった。ピアノと電子の海を往復するような毎日だったとそう思う。師がいるときは、ご飯もむりやり食べさせられたし、お喋りしたりレッスンしたり、厳しいけれど、優しかった。それでもやっぱり、彼は親ではないから、彼自身の生活があり、守るべき家族がある。いつも一緒にはいられない。 「ひ、ひとりでごはんたべてもおいしく、ないし、」 ひとりでいただきます、というのが寂しかった。暗い部屋に並んだ食事は、だんだん作る気力も失せて冷たくなっていった。 「なんでかな、よる、ねむらなくちゃとおもうと、ねむれなくって、」 ぽつりぽつり。涙と一緒に言葉が落ちる。 「い、池沢くんは、そのプログラム、知ってるから、わたし、ねむれないの、知って、ウサギが、それでお弁当食べなきゃだめだって、山口くんが、プチトマト持ってきてくれて、学校で、みんなとおひる食べるの楽しくて、でも、もう夏休みだから、それで、」 だんだん支離滅裂になってきたの話を遮って、佳主馬が箸を置くおと。 「…もういいだろ。」 その言葉に、の話をぎょっとしたり唖然としたり眉を下げたりしながら黙って聞いていた面々を代表して理香が、じゃあ、と重々しく声をかけた。 「じゃあ、つまり、それで佳主馬は、ちゃん、連れてきたわけ?」 「…だから彼女じゃないって最初から言ってるじゃん。」 なあんだ!と大きな声がどっとあがって、はびっくり、きょとんとした。拍子にほたりと、涙が落ちる。 「もー!お母さんの勘違いかあ!」 「なぁんかデジャブだわ!このがっかり感!夏希の婚約者ショック以来!」 さっきまで緊張していた分を取り返すように、それぞれぐったりと姿勢を崩して、疲れたように、それでもみんな笑いだした。 「あの子と一緒にしたらかわいそうよう!佳主馬は一応嘘ついてないんだし!」 「同罪よどーざい!」 「うーん、なんというか、ちゃん、苦労したんだなあ。」 「誤解しちゃったお詫びとは言わないけどさ!ま、心配しないで!せっかくだからドーン!と食べてきなさい!うんうん!」 「そしていずれはうちの佳主馬の嫁に!」 「万作おじさん!!」 「いーじゃない怒んなくても!彼女のできない佳主馬をおじさんおばさんは心配してあげてんの!」 「余計なお世話だよ!心配するなら翔太兄を心配してやりなよ!」 「あれは見込みないわよ!!ほ〜ら佳主馬、ちゃん泣いてるわよ〜?なぐさめてあげなさいよ男なら〜!あーかわいいかわいい!」 「涙が似合う時代が私にもあったわあ…。」 「…母さん。それ、いつの話?」 「うるさいわね。」 わいわいまた騒々しくなった食卓にが気の抜けたようにぽかんとすると、はあ〜、と隣から長い溜息。つられてそっちを見ると、ベチ、と顔面におしぼりが投下された。真っ白で前が見えない。 「…早く食べないと冷めるよ。」 いつも以上にそっけない調子の佳主馬の声。ずり、とおしぼりが顔からずり落ちて、そのまま膝に落ちた。少し冷たい。膝のお絞りを見、それからまた前を向いてもくもくと食べだした佳主馬を見る。 は目の前のお茶碗とお箸をぎゅっと握って、それからやっと、へにゃりと笑った。 |