三十三


 はその晩、夢をみた。
 真っ青な海にドボンと落っこちた。一緒になって水の中に落ち込んだ空気が、幾つものまあるい沫になって、音を立てながらをおいて水面へ昇っていった。伸ばした手のひらが明るいほうをゆったり指して、けれどは沈んでゆく。口からはどんどん空気が沫になって失われて、くるしい、と思うのにまるで痛みはなかった。
 おぼれる。
 はっと瞬きすると、彼女は魚になって、海の底を泳いでいた。真っ青な尾ひれ。ゆらゆらと水の揺れる音。ふと気がつくと、隣を白いウサギが泳いでいる。池沢くん、と呼ぼうとしたら、目つきの悪いウサギがムッとしたように言った。
「カズマ。」
「え?」
 話す度、二匹の口から泡が生れて水面の方へゆらゆら昇っていく。

「佳主馬だよ。」

 ぱっとウサギの顔が佳主馬になって、魚はになった。
 真っ青な海の底で、二人はちょっとお互いを見合った。がわらうと、不機嫌そうに佳主馬がそっぽを向く。でもどこかへ行ってしまったりはしない。最初からこの男の子はそうだったとは思う。
「こんばんは…、」
 コポリと泡につつまれて、言葉がの口から浮かんだ。

「こんばんは、佳主馬くん。」

 それにびっくりしたように細い目を佳主馬が開いた。そうすると随分あどけなくて、少年のようだ。うふふ、と笑うとくぽぽと気泡が鳴る。どこかで鯨が歌っている。あれはOZの空を悠々と泳ぐあの魚と同一だろうか。
 二人の足先が、やわらかい水底につく。舞い上がる砂が、ゆっくりきらきらとひかった。
 ああこの海はこんなに静かで、こんなにやわらかい水と砂があって、遠くの海鳴り、どこかのピアノ。ああこんなに。初めて訪れた場所を珍しがるように、辺りを見回して目を輝かせるばかりのに、佳主馬はちょっと首を傾げて呆れるようにした。そのすぐ目の前を、白い魚がチラチラと泳いでいく。
「わ、魚!」
 知りつくしていると思っていたこの海に、こんな小さな魚たちが住んでいるとは知らなくて、が思わず歓声に似た声をあげると、何言ってるの、と語尾の下がらない疑問文。佳主馬が今度こそ呆れた顔をした。

「それ、鳥だろ。」

 ―――え?
 ざあ、と足元から景色が広がる。
 まっさお。まっさおな。
 (――――海?)
 は目を見張る。先ほどまで体を柔らかく包んでいたものが一瞬にして霧散した。彼女が住むのは深いわだつみの底。彼女は魚。眠らない魚。夜中目を開いて、じっと息をしている魚。水だけ呑んで、生きていて、眠らない眼でおんがくを奏でる?
 いいや、違う。
 パタパタパタと軽い羽音。のすぐ目の前を、鳥が掠め飛んでいった。風が彼女の髪を揺らす。すべて吹き飛ばすような、気持ちのよい風。噫、ここは。見送った先で光の球体が燦然と輝いた。
 辺り一面、真っ青な、空だ。
 入道雲のてっぺんのあたり。

「…おはよう、さん。」

 夏空の真ん中で、ひとりのおとこのこがわらった。