三十五


 すらりとした女の人が、『栄温泉』のバス停で降りた。
 袖のない真っ白なワンピースに、大きな麦わら帽子。大きなトランクをよいしょと両手でひっぱりながら、坂道を登っていく。帰りの飛行機が、乱気流で本の少し遅れた。ほんの少しの遅れでも、田舎へ行くには大きな誤差が出る。現地集合、と手短なメール。
 あの人はもう着いてるだろうなと思いながら、彼女は汗をぬぐいぬぐい坂道を登る。平坦な坂道。
 これがけっこう、疲れるんだ。

 ふうと一度立ち止まって一息入れた彼女の目に、ふいに赤い色が映った。
 深い緑の林の陰で、その人はどうやら、彼女を待ってくれていたらしい。手持無沙汰な様子で、つっ立っているのが見える。
 ――― 一時間に一本のバスなのに。
 びっくりして目をまん丸くした彼女に気がついて、その人がゆっくり坂を下ってきた。どうしよう、すごく、汗かいてるからお化粧が落ちているかもしれない。いまさらながら彼女はちょっと慌てて、けれどいきなり、この場でコンパクトを取り出すのもおかしい。彼女がオロオロしている間に、その人はすぐそばに来てしまった。
「…なにやってるの。」
 呆れたみたいな笑い方。
「や、あの、暑くて!」
「タオルいる?」
「大丈夫!」
 ぶんぶん首を振ったら、帽子が落ちるよ、とやっぱり笑われた。
 よく日に焼けた逞しい腕が、彼女のトランクをひょいと持ち上げる。反対側の手には彼のトランクだ。
「…待っててくれたの?」
 その問いかけに、ちょっと彼が黙る。

「……いっしょにかえらなきゃ、いみないだろ。」

 蝉が鳴いてる。
 夏空の下、いつかの二人がちょっと赤くなって笑った。