二


 ご飯よ、と呼ぶ声に今行くと一度返事を返してから15分ほどして、佳主馬は階段を下った。
「もう受験生なんだから、OZもほどほどにね。」
 少し眉を下げて言う母親に、彼は口のなかでわかってると返事をする。

 母親はもちろん、最近彼がバトルステージに出没しないことを知っていた。中学生に上がりたての頃など上田の家に行ってもずうっとパソコンとにらめっこしていたものだったが。
 むしろ今彼は、バトルゲームよりも、睡眠導入アプリに凝っていた。眠れない、ということではない。ただ単純に、偶然見つけて試したそのソフトを気に入ったのだ。
 スリーピング・オーシャン。
 そのアプリに、彼はひそかに今はまっている。ただ眠りへ誘うためだけの、単純そのもののソフト。アバターと一体化した視界のまま、OZ上でその眠りの海に沈む。それだけのアプリ。
 真っ青な海面を割って、ざんぶとカズマが仰向けに倒れこむ瞬間がたまらなく心地よかった。大きな泡が弾けて、揺れる水面の網模様、それがだんだんと、遠く、星のように小さくなるのを眺めながら、カズマは沈んでゆく。
 沈んでゆく。沈んでゆく。
 沈んでゆくのは彼であって彼ではないが、彼そのものでもある。履きなれた靴のように、彼自身に馴染んでしまっている存在しない体が、海の底に沈んでゆく。今日も聴こえるだろうかと、彼は心の隅で考え、耳を澄ます。すると、噫、やっぱり。
 聞こえる。
 ゆ――――――で あi―――――――――――――――iさ さや――――――――――た―――――――― ―――もbオオオオオオンう―――――。
 一定のリズムで、同じメロディの繰り返し。ところどころ海流の音に負けて聞こえない。あまりに小さな声と音。それでもピアノの音はほろほろと毀れるように佳主馬の耳に届いたし、囁くような掠れた声が、眠る直前までずっとなにごとかうたっているのを聴いている。
 あまりにも控えめ過ぎる音量のせいで、彼は一度それが自分だけが聴いている幻聴ではないかとすら疑ったことがある。目覚めているときに「スリーピング・オーシャン/ピアノ/歌」で検索したがなにもわからなかった。ただアプリのユーザーの間では、噂になっている。アプリの開発者へ問い合わせた結果をコピー&ペーストした頁には、「本アプリをご利用いただくすべての方の睡眠を心地よい最上のものにしていただくために凝らされている様々で多様な工夫のひとつ」であるということだけが記されていた。具体的なことなんてひとつもわかりゃしない。ただその歌を聴いているのが、自分だけではないことに彼は少しほっとしながらも、少し惜しいような気もする。なんだ、自分だけに聞こえている音ではないのか。残念なような、なんだろう、これは。―――があn――――――め、よオオオオオオオオオオオオンく―――――。ウサギの耳を持ってしてもこれだけ聞こえないのだから仕方がない。
 「ねむい、」と佳主馬が呟くと、それに小さくカズマが頷いた、ような気がした。
 最近彼は、自身のアバターが自我を持っているのではないかと錯覚することがある。もちろんそれは錯覚だが、そうならいいのに、とこれこそ心底残念に思った。侘助おじさん、そんなプログラム、開発してくれないかな、無理だろうな、もうAIの研究はあれっきり―――。
 とりとめのないことを考えながら、彼はいつの間にかやはり眠っている。
 青はだんだんと紺碧を深めて黒くなり、最後に残った一条の光もやがて、きえる。
 とおくに水の対流する音。鯨になる夢を見る。ウサギの背中が真っ暗な水の底、やわらかい砂の上につくころには、佳主馬の意識はOZからも現実からも離れて眠りの中にある。水の中、ゴポゴポと空気の泡が弾ける音の向こう、オオオンと鳴く水の流れ、そのもっと向こうに、ピアノの音が沈んでいる。ゆったりとした旧い歌で、タイトルはしらない。それは遠く、小さく、歌詞を聞き取ることすら困難だったが、たしかになにか、子守唄のようなテンポで、誰かがピアノに合わせて歌っていた。
 ―――ポロン。