十八


 はとても、美しかった。
 思わずそこにいる生徒たちが、ぽかんと静まり返るほどには。

 講堂には音楽室から運び込まれたただのピアノ。ずっと前から学校にあるやつ。それがスポットライトを浴びて、きらきらと濡れたように光っていた。
「あーあ、ヒッチャカメッチャカの生ライブ見れると思ったのになあ。」
「ピアノだって。」
「寝るかも〜!」
 これだけの数の子供を、講堂に押し込めて座らせればざわめきは広がるばかりに決まっている。保護者の席もざわざわと、蜂の巣の中にいるように騒がしい。ひとつひとつの会話を拾えはしないが、ブーンブーンと唸る羽音のように、何百人の声が重なって、ひとつの塊になっている。
 岡山は先ほどからずっと、「ああもううるさいな!」 と苛々カリカリしていたし、山口も谷内もそわそわ落ち着かない。佳主馬のクラスだけが、変な緊張感で静まり返っていて、妙にそこだけ浮いていた。
 パッと照明が落ちて、ブザーが鳴る。放送委員のアナウンス。本日の講演は、予定を変更してお送りいたします。「ヒッチャカメッチャカー!」と後ろの方で、ふざけた三年生が叫んだ。どっと笑い声があがる。もう一度、ブザー。
 池沢、岡山、で出席番号が近いので、佳主馬の耳にはずっと岡山の「三年にもなってばっかじゃねえの、」という呪詛じみた小さな唸り声が聞こえていた。
 だんだんとざわめきが静かになる。

「二年三組、さん。」

 きれいな声のアナウンスだった。先ほどまで喧騒に紛れて、その半分も聴こえなかった。暗闇に浮かび上がったままのピアノ。
 こつ、と軽い足音を立てて、舞台袖から人がくる。
 だ。
 ザア、と汐のひくように、ざわめきが遠のく。
 やっぱりこの女子は、周りの時間を止めるような雰囲気を持っていると彼は思った。長い黒髪はそのままに、剥き出しの白くて細い腕と首、真っ青な丈の長いワンピースがさらさらと光る。教室ではあれだけどもったり困ったりするくせに、ちっとも緊張とは無縁らしい。は静かに、舞台の真ん中で頭を下げた。それに気押されたように、一拍遅れて慌ててばらばらと拍手が鳴る。佳主馬の周りのが一番大きくて揃っていた。
 はそれにも頓着しないように、スイ、とまるで青い魚が泳ぐように、ピアノの方へ回りこむ。
 佳主馬からはその背中がよく見えた。楽譜らしいものは一向に見当たらず、はふわりと、ただ赤い椅子に腰を下ろした。いつものいかにも細くて頼りない背中なのに、ぴんと伸ばされたそれは随分強い金剛石のようにも見える。
 何かが始まる。講堂をそんな予感が包んでいた。最後までうるさかった後ろの方の席のさらに後ろから、「シーッ!」という小さな声が上がる。ぱたり、ぱたりと電気の消えるように、音が消える。何も聞こえない。
 いつか机をたたいた指先が、鍵盤の上に置かれた。それはとても、自然な姿だった。の横顔は、少し楽しそうにも見える。
 誰かが息を呑む音がした。

 そっと一呼吸。

 滑りだすように、魔法のように、音楽室の古いピアノが歌い出す。
 とピアノに、どこかてんじょうから美しい光が降っている。
 どうしてだろうか。佳主馬はどこかで、この美しい音色を、もうずっと聴いたことがあるように思った。