(彷徨える子供)

 不二周助という少年にとって、地球とはそも世界とは、常にさながら迷い込んだ異界のように、異質で不気味で、物珍しく、不可解ながらに面白い、まるで別世界だった。
 彼は、幼い頃よりずっと、自分自身が異邦人であり、この世界に属するものではないかのような、浮遊感の中生きていたのである。少年の、ホームというものは、おそらく彼が初めて肺で呼吸をした瞬間に、失われてしまったのかもしれない。彼の、ホームは、あたたかに濁った水の中、その汚濁した美しい原始の王国の中にこそ、あったのかもしれぬ。あるいは、彼自身、遠い星雲を渡りあまりに長い旅の一時凌ぎに、人の皮を被ってこの人間の社会に潜り込んだものの人の世のあまりのめまぐるしさと怠惰にそれを思い出さずにいるだけなのやもしれなかった。
 少年は自分以外の人間の構造がわからず、それがまた彼を一層浮遊させた。ひとり、ひとり、顔形の違う人間たち。大きいの小さいの太いの細いの。なぜこんなにも、多種多様な人間達が、お互いが何を思っているのかも知らず、それなのに平気な顔をしてぞろぞろと歩いているのか、彼にはとんと知れない。駅なぞでうぞうぞ連なって、人間共が群れなす光景は、彼にとって不気味な、まさしく異世界の行列であった。右にも左にも、溢れかえる、にんげんだち。彼にはどうにも、自分がそれらと同じ生物であるとは思いがたかった。
 完全に、彼という固体はこの地上にたったひとりだったのである。それは他の人間に対してもきっと同じことだろう。しかし、彼の精神こそが、そうであったのかもしれぬ。彼は孤高にして、孤独だったのである。それこそ周りの人間からは奇抜すぎて自然に感じられるほどの、不自然に調和した孤独である。
 彼にはよく似た姉がひとりいた。幼い頃、彼女の髪がまだ短く美しい11月の少年のようであった頃、彼は姉と自分は同一なのだとすら錯覚した。
 しかしその認識は彼が2つを越える頃には塗り替えられる。姉はやはり自分とは異なる人間で、女と分類されるものだった。母親は彼の一部であり彼自身母親の分身に過ぎないことから彼女はその分類からは外される。母親は女ではなく母であった。そして姉もまた、彼と同じ母親から切り離されながら繋がったままの、彼の一部であり母親の分身だった。
 彼は女に、母と、姉と、その他のカテゴリがあることを学習した。
 そしてある日、彼は自分の後をついて這い回る生物が立ち上がるのを見た。自分の後をついて回るその生まれ落ちたばかりの下等生物は、成長を続けていたのだ。そしていつの間にか、自分と同じように、立ち、歩き、言葉を発し、彼を見る。その黒い目。それは恐怖であり畏敬の念そのものであり、この世界の神秘そのものであった。おまえはだれだ、と唇がわなないた。弟は立ち上がった。
 彼もまた、周助自身と同一の存在ではなく、他者でありながら同じ母親の分身であった。
 彼はやがて、自らが男というカテゴリに分類されているようだと気づく。父親と母親と姉と弟。そして自分。自らを内包するひとつのコミュニティが存在し、その女王が母親であることを知る。どのような形状のコミュニティであっても、それを形成する人間の半数以上が、母親自身を含め彼女の分身であるから。
 彼は分析している。賢そうな目玉をいつもにこにこと細めて、彼は観察している。彼はやはりどこか違う星の王子のようだった。
 彼はあらゆる周囲のものを吸収しようと努めた。彼にはすべてが異端であり謎そのものであった。彼は学ぶことに貪欲であった。異星に降りたった科学者のように、彼はこの星の生物のことを知らず、そのことを知りたがった。自らの神秘には、やはりそこらの天文学者と同じに思いもよらず、ただただ周囲の星々に目を凝らすばかりである。
 それは保身のためでもなんでもなく、興味だった。自らとは違う、生物。未知のもの。放っておけば、いいものなのだ。必死をこいて、違う星に生物やら資源やら見つけようと汗をかく学者たちと同じに、自分らの星のことだけ、その神秘をまず紐解けばよいのである。しかしそうして、いられないのが知恵をつけた猿の性だろうか。自分の領域の、外の存在が、いようがいまいが気になって仕方がなくって、いけない。
 しかしながら、彼は驚くほどそれら周囲の異界に馴染んだ。まるで言葉の異なる種族の中に飛び込んだ旅人のようだ。彼はどこまでも、異邦人として集団の中に馴染んでいった。彼が異質であることは当然として処理され、誰もそのことを不思議とも思わなかった。それが彼の、自然な存在の仕方であったから。
 彼の目は常に、周りのものを見ている。解剖をする生物学者のように、彼の視線は客観的で、熱狂的ですらあった。いつまでも飽きぬこの世界。男、女、子供、大人、老人、赤子。様々な人間。それらすべてが、本当は女王達を中心に据えて巡っているのだと、彼は把握しつつあった。この星は女たちの星だ。自らもその星の住人であるにも関らず、やはり彼は他人事のように観察を続ける。種を残す女王を核に、この星は回っている。だから家庭というコミュニティの中で、男は、つまり父親は、衛星のように孤独なのだ。その共同体の中にあって、子供は男に、数えられない。
 彼は少し微笑み、自らの観察記録を脳という記憶倉庫に保管する。彼のそれらの考察と観察の記録は、常に新しいものに塗り替えられ、そして再び、見直され整頓され、更新され続ける。教室の窓から眺める空は青い。それらはレイリー反射という、オゾンに光が反射して、青く光るのだと、彼は教えられずとも知っている。レイリーなどという名は知らずとも、彼は知っている。それが光の屈折の具合で、大気が青く揺らぐのだと。生まれる前から知っている。

「不二、なーにニヤニヤしてんの?」
 友人が不思議そうに尋ねる。不思議な生き物。お互いがおそらくお互いを認識している。しかしおそらく違うのは、友人は不二周助その人のみを不思議だと認識しており、その不二周助本人は、自ら以外の他者すべてを不思議だと認識している点にあるだろう。
「なんでもないよ、英二。」
 微笑んで彼は答える。この地上の生命ほぼすべてに、自らの微笑は効果を持っていると彼は客観的に理解している。学校という、幼い人間たちを集めた集合体。教育を行い、人間を、育成する。この多様な人間達を、一様に、教育する。興味深いことだと、彼は思い、そしてその中で浮遊し続けている。誰もがそのことを知っており、それでいながら不思議とも思わない。彼がそういうものだと、誰もが知っている。天才という二文字で、彼のその浮遊は、当然のことと認識されるのだ。奇怪なことだ。そしてそれは、彼にとってとても都合がいい。
 廊下は学校の北側にある。他の学校を見なくても、彼は知っている。教室は南側。廊下は走らない。たくさんの決まりごと。彼にはまるで、古代文字を読み解くような。高揚感と知識欲の流出。階段は何段?渡り廊下の面積は?
 彼の抱えたノートと筆箱。そこからひとつ、夢のように小さな消しゴムが滑り落ちる。重力。この星の我が儘。
「不二くん、これ落としたよ。」
 少女の声だ。その声に彼は反応し、振り返る。そして、そして一瞬その捕らえたはずの言語の意味を忘失した。彼は、彼の耳はそれらをただの音としてしか識別できなかった。
 少女が一人、立っている。長い廊下に、立っている。彼はそのような生物を初めて見た。いいや彼にとって人間との出会いはすべて初めての遭遇だった。だが、これは違う。根本的に違う。彼はそれに出遭った。彼の意識が告げる。これは新種だ。まったくの新種だ、と。
 人間、人間。女。母親、姉、その他。どれにも当てはまらない。君は誰だ。頭の裏側辺りが声を上げる。驚き、僅かな畏れに慄き、そして、歓喜している。お前はなんなのだ?
 この分類不可能な生物を、どこにカテゴライズすれば良い?まったく未知の、新しい生物だと思い、果たしてほかの人間と同じに、その血は赤いのかと戦慄く。そして次の瞬間、少年は気づくのだ。少女と自らも同じ、生物であるということを。今まで信じ込んできた、自らの存在が、地に落ちる。オブサーバ、それは彼の名ではなかった。そのことに気づく。この世界は女を中心に営まれている、女王の巣、女王の巣だ。彼の網膜の裏側で、赤い光がゆっくりと明滅する。赤い光は少女の名前を形作る。そうだ知っている。教室の一番後ろ、左から2番目の席が彼女の花の玉座。
「(噫。)ありがとう、」
 受け取る指が僅かに震える。初めて彼は、意識してこの星の空気を呼吸する。噫これが二酸化炭素と水の味。酸素の味など彼は知らぬ。真空を吸って生きた、原初の時代が彼の誕生時さながら唐突な光と共に消失するのだ。
 彼はほほえむ。少女に向かって。
 そうしてその時、彼を包むやわらかな洋膜は敗れ、彼は誕生する。この地球に。彼は堕落する、この地上に。彼は覚醒する、その他大勢の人間の中に。




20081202